しかし、(聖文書が彼らは)エブス人たち、すなわち、「踏み付け」と解釈される人たちを追い出すことができなかったということは、私を動かします。そして、ですから私たちは、教会の中で「踏み付ける者たち」が誰であるかを見ましょう。彼らは疑いもなく、主が諸々の福音の中で次のことを言っていた人たちです:「あなた方は、聖なるものを犬たちに投げようとしてはならず、また、あなた方の諸々の真珠を豚たちの前に置こうとしてはならない――それは、それらが、それらを自分たちの諸々の足で踏み付け、翻ってあなた方を食いちぎらないようにするためである[1]」と。ですから彼らが、エブス人・「踏み付け」です。彼らは不適切な者たちとして、神のみ言葉を聞きます。そして彼らは、聞いても、不信心な者たちとして退かず、信仰者たちとして留まることもしません。彼らは、諸々の神秘の認識を受け取っても、そして、私たちの信仰の諸々の秘密に精通したとしても、後に転回して私たちを攻撃し、自分たちの諸々の抗弁によって私たちの心を食いちぎり、主的なみ言葉の諸々の真珠を踏み付け、信仰の諸々の装飾品を汚します。ですから彼らについて、次のことが言わています:「ユダの子らは、エブス人をエルサレムから今日に至るまで投げ出すことができなかった[2]」と。

ところで、何か似たような事柄がエフライムについても書かれています:「そしてエフライムは、ゲゼルに住んでいたカナン人を散らさなかった。そしてカナン人は、エフライムの中に今日に至るまで住んでいる[3]」と。エフライムは、結実と解釈されます[4]。ですから、信仰の中で結実し成長する人は、カナン人、極悪の種、呪われた種、常に動き常に不確実な種を根絶することができません。実際カナン人はそのように解釈されます。そして、次のことは確実です:すなわち、結実し成長する人と一緒に常にカナン人が住むということです。実際、諸々の誘惑の諸々の動きはその人から決して止まないからです。しかし、もしもあなたが真実に神の中で結実しており、そのような人が落ち着きなく騒々しく動揺しているのを見る、その人がカナン人であるとあなたはお知りおきください。そしてもしもあなたが、彼を教会から投げ出すことができないとしても――なぜならエフライムの子らは、カナン人たちを散らすことができなかったからです――、使徒が次のことを言って勧告していることを、あなたは守ってください:「あなた方は、落ち着きなく歩く一切の兄弟から、あなた方自身を引き離しなさい[5]」と(使徒は言っています)

しかし、ソロモンは、「私たちが読む諸々の事柄は心の中に三重に記される[6]」ことを忠告していますから、私たちが述べた諸々の事柄の他に、さらに私の心に生じる事柄を、私たちはあなたがの諸々の耳に表明いたします;そして、あなた方も、次のように書かれている事柄を行ってください:「一人(の人)が語るなら、他の人たちは吟味すべきです[7]」と。ですから、私が感考することを私が言うなら、あなた方は、それが正しいか全く正しくないか識別し吟味してください。

エルサレムについて、私たちは頻繁に、それが平和の視認と解釈されると言いました。ですから、もしも私たちの心の中にエルサレムが建設されたなら、すなわち、もしも平和の視認が私たちの心の中に設置されたなら、そしてもしも私たちが、「私たちの平和[8]」であるキリストを心の中で常に見詰め、かつ、保つなら、そしてもしも私たちがその平和の視認の中で揺るぎなく安定し、如何なる悪い考えや何らかの罪の謀が私たちの心の中に決して上らないなら、(そして)そのことがそのようになり得るなら、私たちは次のことを言えるでしょう:「私たちはエルサレムの中におり、聖なる者たちの他は誰も私たちと共に住まない」と。しかしながら、たとえ今、私たちが、多くな進歩に至り、最高の諸々の勉学によって私たち自身を琢磨するとしても、(私たちの)一人ひとりが敵対的な思いの感染によって決して汚染されないほどの純粋さは決して心の中に生じないと、私は思います。ですから、エブス人たちが今でもユダの子らと共にエルサレムの中に住むのは確実です。しかしながらそれらからといって、私たちは可能な限り彼らを投げ出すことを怠るべきだと、私たちは言っているのではありません。むすろ私たちは十分に行動すべきであり、日ごとに彼らをエルサレムから投げ出すことを試みるべきです。しかし、(聖文書に)書かれていますように、私たちは、彼らをすべて一挙に投げ出すことはできません。しかし、この同じことは、結実する人たちにの中にも感知されねばなりません。彼らは、エフライムの子らと名づけらますし、彼ら自身もカナン人たち、(すなわち)諸々の当て所なく彷徨う諸々の思いを常に自分たちの諸々の魂から投げ出さなければなりません。

しかし、神は、エブス人たちもカナン人たちも私たちに服従させるほどの能力のあるお方です。それは、次のように書かれている通りです:「しかし彼は、カナン人たちをエフライムの子らに服従させた[9]」と。ですから私たちは、主ご自身に祈願しましょう:神が、私たちから諸々の悪い考えを投げ出ことによって、天的な町エルサレムに相応しい諸々の良き考えをもたらして下さいますように。それらの諸々の(善き)考えの中には、私たちを裁きの日の中で式の諸々の考えから告発する以下なら如何なる汚れも穢れも見出されません。むしろ私たちの中には、私たちの主なるキリスト・イエスにおいて心の純粋さが見いだされますように。彼に「栄光と力が代々にありますように。アーメン[10]」。



[1] Mt.7,6.

[2] Jos.15,63.

[3] Jos.16,10.

[4] Cf.Philon, Com.Alleg.Leg.,III,93.

[5] 2Th.3,6.

[6] Pr.22,20.

[7] 1Co.14,29.

[8] Ep.2,14.

[9] Cf.Jos.17,13.

[10] 1P.4,11.