ではいま、カナン人たちについてのその三重の物語がどのようなものに見えるか、私たちは見ましょう。

第一にカナン人は、私たちと共にいて、貢物の下にいます。しかしカナン人は、私たちに従順でなく、奴隷でもありません。第二にカナン人は、奴隷になり、従順になります。ここで私たちは、カナン人を私たちの肉、あるいは、肉に由来する諸々のものと取りましょう。その肉は第一に、私たちと共にいます、すなわち、魂に結び付けられていますが、魂に従順ではありません。ただし、それが諸々の貢物を支払っている場合はその限りではありません。すなわちそれは、行動や動きの何らかの奉仕を提示しますが、「霊に反して欲望し[1]」、魂に従順でなく、自分の諸々の欲求に譲歩します。しかしながら、私たちがある程度に進歩したなら、肉は私たちにとって奴隷になり、魂の意思に従順になり、従うようになります。そしてそれが、魂の第二の進歩です――(魂が)肉を自分に従わせ、仕えさせたとき。

他方、第三(の進歩)は、完全であることです。実際、もしも私たちが現実に完成へと向かうなら、さらにカナン人が私たちによって追放され、死に渡されるべきだと言われます。しかし、どのようにしてそのことが私たちの肉の中で成就されるのか、あなたは使徒が次のことを言っているのを聞いてください:「あなた方は、地上にあるあなた方の諸々の肢体、姦淫、不浄」、その他のそれに続く諸々のものを死に至らしめなさい[2]。そしてまた、彼は次のことを言います:「しかし、キリストに属する人たちは、自分の肉を諸々の悪徳と諸々の貪欲と共に十字架に付けました[3]」。ですから、ですからそのように第三に、すなわち、私たちが完全へと来たり、私たちの諸々の肢体を死に至らしめ、キリストの死を私たちの体の中で運び回るとき、私たちによってカナン人が追い出されます。



[1] Ga.5,17.

[2] Col.3,5.

[3] Ga.5,24.