それらの後で、次のことが見られねばなりません:すなわち、ヨセフの子らが嗣業地について質問を動かし、もっと大きな取り分を要求して、イエスに次のことを言っているこことです:「なぜあなたは、嗣業地として一つの取り分、一つの分け前を私たちに与えたのですか。しかし私は、多勢の民であり、主は私を祝福しました[1]」と。

ですから、もしも私たちも多勢の民であり、主が私たちを祝福するなら、私たちはイエスから聞きましょう:「あなたは、多勢の民である。あなたは、森の中に昇り、あなた自身のために(森を)切り開き、大地の中に場所を準備しなさい。そしてあなたは、ペリジ人たちとレファイム人を浄化しなさい[2]」と。ですから、私たちはペリジ人たちを投げ出す必要があります。ところで私たちは、ペリジ人たちが結実と解釈されることを見出します。しかし、しばしば既に私たちが、他の諸々の名称について言ったように、この箇所の中でも解釈は二重です:実際、善い結実と悪い結実があります。それは、諸々の福音の中で示されている通りです:「善い木は、善い諸々の実を結ぶ。そして悪い木は、悪い諸々の実を結ぶ[3]」とあります。ですから私たちは、善く結実しないものはすべて追放し、罪の実を切断し、不正の実を浄化しなければなりません。

しかし、「あなたは、あなたからレファイム人を追放しなさい」――あるいはむしろ、「あなたは浄化しなさい[4]」――と(聖文書は)言っています。私たちは、レファイムが弛緩された母親たちと解釈されるのを見出します。私たちの魂の中には、諸々の理解を生み出すとともに、私たちから発出する諸々の理解や諸々の知解の母親のようになっている或る力が存在します。それは、秘跡の中で母親ような魂について次のように言われている通りです:「しかし(彼女は)、信仰と真理の中に留まったなら、子たちの出産を通して安泰になるでしょう[5]」と。ですから、それらの母親たち、すなわち、魂のそのような力は、強くて頑強で剛毅な魂がある人たちのために、反論する人たちによって凌駕され得ない頑強で強力な諸々の力を生み出します。他方、他の人たちの中でそのような力は、弛緩され緩められています。その力は、或る無気力で浅はかで、自分自身の中に何らの強さも含まない諸々の理解が表明されるとき、そのような諸々の理解から示されます。ですから、レファイムの名前の下にそのようなことが意味されています。それは、無気力で無用あ諸々の理解を生み出すそのような類の弛緩された母親たちを、私たちが浄化するようになるためです。そして(聖文書)は、霊的理解の特性を保っていました。なぜなら(聖文書は)、レファイムは根絶されるべきであるとは言わず、浄化されるべきであると言っていたからです。実際、魂の諸々の本性的な動きを破壊し根絶することでなく、浄化すること、すなわち、私たちの怠惰からそれら(の本性的な動き)に到来する汚れと不浄を浄め追い払うことが教示されています。それは、その(魂の)固有で生得的な力の本性的な活力が輝き出るためです。



[1] Jos.17,14.

[2] Jos.17,15.

[3] Mt.7,17.

[4] Jos.17,15.

[5] 1Tm.2,15.