ですからは、諸々の籤の理拠がどのようなものであるかを、私は私自身の許で問うていました――()文書の多くの証言から隠れていた意味を私が認識するために。もちろん私は、諸々の()文書の中に異邦の人間たちが諸々の籤を使ったのを見出していました――ヨナが航海をして、嵐が迫っているときに。実際、航海をしていた人たちは次のことを言っています:「私たちは籤を置こう。そして、そのようなひどい害悪が誰の原因によるものかを、私たちは知ろう[1]」と――あたかも籤が、航海者たちに危険を差し迫らせている原因になっている人を明らかにすることができるほどの力を持っているかのように。たとえ彼らが異邦人たちで、神の覚知から無縁であるとしても、彼らはそのような期待の中で欺かれません。籤は、真実であったものを彼らに明らかにしました。「結局、籤は代なの上に来た[2]」と(聖文書は)言っています。

ですから私は、それらの事柄について探求し、ソロモンも『諸々の箴言』の中で次のことを言っているのを見出します:「籤は、諸々の言い争いを妨げ、有力者たちの間で終わらせる」と――あたかも彼は、籤が置かれると、諸々の言い争いが止むのを明示しているかのように。

しかし、それらの事柄は、古い契約の中で少なからざる箇所で諸々の籤に関して言及されるのを、私は見出しますけれど、更に新しい契約に私を立ち帰らせてください――もしかするとそこでは諸々の籤が軽蔑されているか、それともそこではそれらの使用が退けられていないのかどうかを私が見るために。すると私は、次のことを発見します:すなわち、ある時、使徒たちの数に一人の使徒が欠けて、ユダの代わりに他の者が提示される必要があったとき、集まった来た使徒たち――彼らは、今日に司教たちや司祭たちや助祭たちを叙階する人たちよりも遥かに賢明です――二人を選び、真ん中に立たせました。しかし(使徒たちは)、彼らについて、自分たちが望む人を選ぶために、自分たち自身で判断することを許しませんでした。(使徒たちは)祈りつつ、神のみ前に立てた二人の人たち、すなわち、バルナバと呼ばれユストとあだ名された者とマティアとについて籤を置いたと(聖文書は)言っています。「そして籤は、マティアの上に落ちた。そして彼は、十一人の使徒たちと共に数え加えられた[3]」と(聖文書)は言っています。実に祈りが先行したいたのですから、偶然によってでなく、摂理によって、籤が神的な判断を告げたのです。

しかし私はさらに、新しい契約のどこかで、籤がキリストの中や教会の中、あるいは、魂に届く諸々の神秘的な事柄の中で名指されているかを探求していました。私はパウロが、エフェソの人たちに宛てて(手紙を)書き、キリストについて次のことを言うのを見出します:「彼の中で私たちは、籤によって呼ばれました。私たちは、彼の計画に従って予め運命づけられています。彼は、ご自分の意図の勧告に従ってすべての事柄を働きます。それは、キリストの中に予め希望していた私たちが彼の栄光の賛美の中にいるようになるためです[4]」と。そればかりかテサロニケの人たちに宛てて次のことを書いている(のを私は見出します):「私たちを光の中で聖なる人たちの籤の取り分に私たちを適した者にしてくださった父なる神に(あなた方が)感謝をささげつつ[5]」と。

さて、諸々の籤の言及について聖なる諸々の文書からそれほど多くの証言が集められました。それは、私たちが多くの諸々の箇所から事柄の力をより注意深く把握できるようになるためでした。しかし、それらすべて(の箇所)からしても、私には、明晰な理解がいまだに判明に明らかになることができませんでしたし、それほどの(深遠な)事柄について、告げられ表明されるべき秘密の怖れがありました。しかし、事柄が許す限りで、次のことに到達したことで十分だとしましょう:すなわち、完全無欠の信仰と予め置かれた祈りとから籤が引かれるばあい、神の意思が隠れた事柄の中に含んでいる諸々の事柄を、籤は人間たちに明白さの中で明らかにするということです。



[1] Jon.1,7.

[2] Jon.1,7.

[3] Cf.Ac.1,23-26.

[4] Ep.1,11-12.

[5] Col.1,12.オリゲネスは「テサロニケの人たち」と言っているが、「コロサイの人たち」への書簡からの引用である。それは、彼の覚え違いを端的に示している。