しかし、パウロが「聖なる人たちの籤の取り分の中で[1]」、そして「(私たちは)キリストの中で籤によって呼ばれました[2]」と言うとき示しているように見えるより内的な理解に従って、人間たちの中ばかりでなく、上層の諸々の力の中で籤(引き)が行われて、そして、何らかの力がその役務を司るのではないか見るべきです:たとえばその力は、今の場合のように、嗣業地を分配するヌンの子イエス――何らかの御恩のためでなく、神に喜んでもらえると彼が知っている事柄に従って嗣業地を分配するヌンの子イエス――に対して、籤の誘導を提示している(のではないか)、そして(その力は)、神の許で第一の場所を保持すると(その力が)知っている者に第一の諸々の事柄を生ぜしめ――それは、神の許に隠された諸々の事柄の中にあるものが籤の舵取りによって人間たちにも示されるためです――、他方、第二の場所の人に別のことを、また第三の場所の人に別のことを起こすのではないか(見るべきです)

このように、それは、諸々の土地の中ばかりでなく、諸々の天的なものの中でも行われていると私は思います。そして、神の許で諸々の功績の観想によって特徴づけられるそのよう籤は、次の時にも持たれたと私は思います:それは、「至高者が諸国民を分け、アダムの子らを撒き散らし、諸国民の諸々の境を神のみ使いの数に従って定める。そして、主の取り分はヤコブ、彼の嗣業地の所領はイスラエルになった[3]」という時です。ここでも、イスラエルの取り分と所領を神は籤で決めたと(聖文書が)言っているのを、あなたは見ます。ですから、籤によってあるみ使いには国民を引き受けることが起こったのは偶然によってであると考えられるべきではありません:たとえば(あるみ使いには)エジプト人たちの(国民を)、他(のみ使い)にはモアブ人たちの(国民を)、そして他(のみ使いに)にはインドや土地の上にある諸々の国民のそれぞれを(引き受けることが偶然に起こったと考えられるべきではありません)。むしろその場合でも、たとえ神のみ使いたちの数に従って諸国民が籤によって分割されたと言われるにしても、隠れたところにある神の判断を籤は公の中で開示すると私たちは人間たちの中で述べたような籤が、この場合にも存在したと信じらればなりません。すなわちそのような籤によって、み使いはそれぞれ、各自の功績と力に応じて然々の国民を分割の中で引き受けたと。

そして私は、重大で一般的な諸々の事柄について何を言うのでしょうか。なぜなら、たとえば次のようなことは、私たちの一人ひとりを通して、神の判断によって采配されるそのような籤に何し起こらないと言わなければならないからです:すなわち、私たちは各々、誕生の瞬間から、然々の人世を籤引きます。あるいは確かにこのこと、すなわち、善いみ使いたちが人間たちに現臨し、敵対的なみ使いたちも(人間たちに現臨する)ことは、人間たちに対して行われることを、私たちは諸々の聖文書からしばしば教えました;また、偶然によって(神の)判断もなしに、然々のみ使いが然々の魂の、たとえばペトロの魂の守護者であることを籤引きし、他の(み使いは)パウロの(魂の守護者)、あるいは他の(み使いは)教会に属する一人(ひとり)の幼子の(魂の守護者であることを籤引きしたわけではありません。それらの(幼子たちの)み使いたちについて、主は言っています:「(み使いたちは)諸々の天の中にいる自分の父の顔を常に見ている[4]」と。ともかく彼ら(み使いたち)について、次のことは疑われるべきではありません:すなわち彼らの品位や私たちの魂の性質を透明に見通す神の判断によって、彼らは、私たちに一人ひとりの守護を籤――キリストのある神秘的な采配によって導かれた籤――によって籤引するということ(は疑われるべきでありません)

しかし私としては、私の臆見に関する限り、この世界の諸々の奉仕職を引き受けた諸々の力についても、次のことが大胆に言われねばならないと考えています:すなわち、運や宇偶然によって、この力は土地や諸々の木の発芽を司るのでもなく、あの(力は)諸々の泉と諸々の川の発生に十分に(水を)供給しているのでもなく、他の(力は)諸々の雨の、他の(力は)諸々の風の発生を、他の(力は)諸々の海生動物を、他の(力は)諸々の陸生動物や土地から産み出される一つひとつのものを司っているのではありません。そして、それら一つひとつのなからに、神的な摂理の言語を絶した諸々の神秘が存在していて、ありとあらゆるものが、一つひとつの力を通して、その秩序と適切な役務に従って分けられる(と私は考えています)。実際、使徒パウロもそのような意味で次のことを言っています:「(み使いたちは)皆、救いの嗣業地を受け取る人たちのための奉仕職に派遣された奉仕者としての霊たちではないのですか[5]」と。



[1] Col.1,12.

[2] Ep.1,11.

[3] Dt.32,8-9.

[4] Mt.18,10; cf.De Princ.,I,8,1; III,2,4; Hom.Lc.,12; Hom.Nb.,11,4.

[5] He.1,14.