ですからそれらの(天的な)事柄の模倣に従って、ここでも次のことが信じられるべきです:すなわち聖文書は、もろもの籤がイエスによって引かれたこと、そして嗣業地が一つひとつの部族ごとに、神的は経綸によって定められたこと、そして、神の曰く言い難い摂理と予知を通してそれらの諸々の籤の中に、諸々の天における将来の嗣業地の範例が投影されていることを、語っているということです。実に、「律法は、将来の諸々の善き事柄の影を持っている[1]」と言われているのですから、そして、使徒が、主イエス・キリストの許に来た人たちについて、「あなた方はシオンの山、生ける神の町、天的なエルサレムに近づきました[2]」と言っているように、エルサレムとシオンの山と言われる何らかの町が諸々の天の中にあるわけですから、ベニヤミンが自分の籤の中でエルサレムとシオンの山を受け取ったのは確かに理由のないことではありません。なぜなら、あちらの天的なエルサレムの理拠は、疑いもなく次のことを要求していたからです:すなわち、他ならぬベニヤミンに、天的な形象と形姿を保持する地的なエルサレムが与えられねばならないということ(を要求していたから)です。同じように、ベツレヘムについても次のことが言われねばなりません:すなわち、ある確かな理拠なにし(ベツレヘムが)ユダの籤の中に定められ、ヘブロンも他の一つひとつの諸々の町も個々の諸々の部族に割り当てられるのではないということです。なぜなら、私たちが述べましたように、あちらの天的な諸々の場所――それらの中に(天的な)エルサレムも(天的な)シオンも存在すること、そして疑いもなく、それらに近かったり接したりする他の諸々の(天的な)場所も存在することが名指されています――は、それら自身の中に、(地的な)それらが籤によって諸々の土地の中で分配されることが舵取られることの原因と理拠を含んでいたからです。

そういうわけで、神的な知恵は、諸々の場所のある諸々の名称――それらの名称は、ある神秘的な解釈を含んでいます――が諸々の文書の中に書き記されることを摂理したのです。それらの名称を通して次のことが私たちに示されるはずです:すなわち、それらの事柄は、偶然や運によってでなく、ある諸々の確かな理拠によって起こるように摂理されているということです。

実際、たとえばあるみ使いがミカエルと呼ばれ、他(のみ使い)がガブリエルと呼ばれ、そして別(のみ使いが)ラファエルと呼ばれることが運によって起こったと考えられるべきではありません[3]。また、私が諸々の人間的な事柄に降ってみると、ある族長がアブラハムと呼ばれ、他(の族長)がイサクと呼ばれ、そして別(の族長)がイスラエルと呼ばれることが運によって起こったのでないはありません。また、婦人たちにおいても、あのサラはサライから呼ばれたことや[4]、あのイスラエルはヤコブから呼ばれたことや[5]、あのアブラハムはアブラムから呼ばれたことは[6]、偶然によってでなく、ある確実で神的な理拠によって起こりました。そして、み使いたちや人間たちのそれぞれが、各自に結び付けられている諸々の職務や諸々の行動から諸々の名前も籤引くことが確実です。それと同じように、ある諸々の天的な場所が存在するのは必然ですし、天的なエルサレムとシオンが言及されているのと同じように、他の諸々の天的な町も存在するのは必然です。それらの(諸々の町)の雛形と似像を、諸々の土地の中にある諸々(の町)が含んでおり、それら(の町)は、いま、この()文書の中で神秘的にヌンの子イエスを通して私たちに示されています。そして、それらの諸々の町について、次のことが言われていると私は考えます:「ユダの諸々の町が建設されるだろう。そして彼らは、そこに居住し、その町を嗣業するだろう[7]」と言われています。救い主なる主も、それらについて、「父の許には多くの住居がある[8]」と言っています。そして、それらの諸々の町について、善く商売した僕に主は「あなたは十の諸々の町の上で権能を持ちなさい」と言い、他の僕には「五つの諸々の町の上で(権能を持ちなさい)と言っていると信じられねばなりません。

諸々の籤によるユダの土地の分割について以上の諸々の事柄を、私たちは(神によって)許された限りで、()文書に促がすままに敢えて表明しました。それは、天的なエルサレムとシオンの山と、その他の同じように書かれている諸々の事柄が諸々の天の中にあると言っています。それらは、それらすべての事柄について、それらの中に天的な諸々の神秘が記述されていると考える機会を私たちに与えてくれました。

そしてですから、私たちはあなた方に言います――あなた方は、倦怠をもってそれらの事柄を読むべきではなく、()文書が多くの名前の呼称から成り立っているからといって()文書を軽蔑すべきものと考えるべきでないと。そうではなく、人間的な言葉では表明できず、あるいは死すべき聴覚では聞くことができない一層偉大で言語を絶した諸々の神秘がそれらのも事柄を通して含まれている知るべきです。それらの事柄は、この私が考えますには、「もっとも小さな[9]」私によってばかりでなく、私よりも遥かに善い人たちによっても、相応しく完全無欠に説明され得ません。もちろん私は、それらの事柄が聖なる使徒たち自身によって充全かつ完全無欠に表明されているかどうか知りません。ただし私は、(それらの事柄が彼らによって)十全に知られていないとは言いませんでした;充全に表明されていないと言っています。

実際、それらの事柄は、「第三天まで連れ去られた[10]」方にとって認識され完全無欠に把握されたことは、確実です。確かに彼は、天の中に置かれて、諸々の天的な事柄を見ました;エルサレム、神の真の都を見ました;そこでシオン山を見ました――それがどこにあろうとも――;ベツレヘムも見ました;ヘブロンも見ました;籤によって分割されたとここの書かれているすべてのもろもろの事柄も見ました;そして、彼は見ただけではありません。彼は、それらの事柄のもろもろの理拠も霊の中で把握しました。なぜなら彼はみずから、(それらの)諸々の言葉と諸々の理拠を聞いたと告白しているからです。では、それらのもろもろの言葉とは何でしょうか。「いわく言い難く、しかも人間たちに語るのも許されない諸々の事柄[11]」と彼は言っています。

ですから、パウロがすべての諸々の事柄を知り、霊の中で把握しますが、彼にはそれらの諸々の事柄を人間たちに表明することは許されていなかったことを、あなたは見ます。どのような人間たちにでしょうか。疑いもなく彼らは、(使徒が)彼らについて非難して次のことを言っていた人たちです:「あなた方は人間たちであり、人間に即して歩んでいるではありませんか[12]」と。しかし、おそらく彼は、もはや人間に即して歩んでいない者たちに、それらの事柄を語ったでしょう。彼はそれらの事柄をテモテに語っていました;ルカと――言語を絶した諸々の神秘を許容できると彼が知っていた――その他の弟子たちとに語っていました。まさしく彼は、何かしら次のようなことを神秘の中で言って勧告していました:「あなたは、あなたが私から聞いた諸々の言葉を思い出していなさい。そしてそれらの言葉を、信心深い人間たちと、他の人たちにも教えることのできる人たちに委ねなさい[13]」と。

ですからそのように私たちは、それらの諸々の事柄が神的で神秘的であることを信じつつ、そして、生活と信仰と諸々の行いと諸々の功績とによってそれらの事柄の受容に相応しく適切になるように私たち自身を準備しましょう――それらの事柄が相応しく私たちによって理解された暁には、私たちがそれらの事柄を諸々の天の中でそれらを獲得するのに値するために、私たちの主キリスト・イエスの中で。彼に「栄光と力が代々にありますように。アーメン[14]」。

 



[1] He.10,1.

[2] He.12,22.

[3] Cf.C.Cels.,I,25; De Princ.,I,8,1.

[4] Gn.17,15.

[5] Gn.35,10.

[6] Gn.17,5.

[7] Ps.68,36.

[8] Jn.14,2.

[9] 1Co.15,9.

[10] 2Co.12,2.

[11] 2Co.12,4.

[12] 1Co.3,3.

[13] 2Tm.2,2.

[14] Cf.1P.4,11.