第二十四講話

アモリ人たちについて、どのようにして彼らはエフライムと共に居住したのか。そしてイエスについて、どのようにして彼はイスラエルの子らから町を受け取ったのか。

 

 エルサレムに居住していたエブス人たちについて、どのようにしてユダの子らは彼らを根絶できなかったのかが先ほど言われました[1]。さらに、カナン人たちについても――彼らのただ中に居住していたエフライムの子らは彼らを根絶できませんでした[2]――(先ほど述べられました)。それらに似た諸々の事柄を、更に目下の朗読も、アモリ人たちについて述べて次のことを言っています:「アモリ人は、エロムの中に、そしてサラミンの中に居住し続けた。そしてエフライムの手は、彼らの上で重くされた[3]」と。

アモリ人は、「苦い」あるいは「苦さ」と解釈されます[4]。ですから、(もしも彼らが)「強打する者たち」と解釈されるエロムの中に、あるいは、「平和を作る者たち」と解釈されるサラミンの中に居住するなら、諸々の「苦さ」が「強打する者たち」の中と、「平和を作る者たち」の中に存続し、共住しています。「強打する者たち」とは、諸々の戦いの中に置かれて、悪魔的な諸々の社と諸々の建造物を攻撃することに努力する人たちです。他方、「平和を作る者たち」とは、諸々の肉的な欲望を凌駕して、魂に平和をもたらす人たちです。しかし、両者の人たちの中で、敵対的な力、「苦さ」が耐え忍び、存続することを志しています。

次の言葉の中、すなわち「アモリ人は、彼らの中に共住し続けた[5]」と言っている言葉の中に私たちは、何かしら次のようなことを理解することができます:たとえばもしも、悪霊の敵対的な力が、(その)苦さの軍団から来て、誰かの身体を包囲し、(その)精神を混乱させ鈍麻させるなら、しかし、多くの諸々の祈り、多くの諸々の断食、諸々の魔除けの多くの諸々の喚呼が適用されても、それらすべてに耳を貸さない悪霊が、包囲された身体の中に存続し持続するなら、(悪霊は)、厚かましく邪悪に包囲する人間から退去するよりも、払魔師たちからの諸々の罰苦と、神の名前の喚呼から適用された諸々の苦しみとを忍耐強く担っています[6]。ここでも、アモリ人たちと言われている人たちの中に同じようなことが理解されねばなりません。かえらは、「エドムの中に、そしてサラミンの中に居住すること[7]」を続け存続します。そして()文書は、彼らが諸々の罰苦を耐え忍びつつ、諸々の鞭を耐えていることを真実に示すために言っています:「そして彼らの上で、エフライムの手は重くされた[8]」と。

しかしどのようにして、「エフライムの手はアモリ人たちの上で重くされる[9]」のでしょうか。私たちが申したように、払魔師たちの手がいっそう強烈に課せられることによって、エフライムの手が汚れた霊たちの上で重くなると言われます。あるいは、諸々の善い行いと諸々の善い業が、悪霊たちの種族と諸々の敵対的な力とを重くし苦しめるからです。実際、私たちが諸々のより善い事柄を行うほど、諸々の最善の事柄の中で暮らすほど、それらは彼らにとって重苦しいものになります。他方、彼らにとって喜ばしく歓迎され、彼らに何らかの仕方で諸々の愉快を提示するのは、破廉恥と諸々の醜聞の中に生活する人です。それに対し、諸々の善き行いの中で自分の手を彼らの上で重くした人は、たとえ彼らを完全に追放することができなかったとしても、確実に彼らを朝貢者たちと臣従者たちにするでしょう。



[1] Cf.Jos.15,63.

[2] Cf.Jos.16,10.

[3] Cf.Jos.19,48 LXX.

[4] Cf.Hom.14,2.

[5] Cf.Jos.19,48 LXX.

[6] Cf.Contre Celse, I,6.

[7] Cf.Jos.19,48 LXX.

[8] Cf.Jos.19,48 LXX.

[9] Cf.Jos.19,48 LXX.