第二十六講話

岩の諸々の剣が埋められたことについて、そして、ヨルダンのあちら側にいる二つ半の部族が建てた祭壇について。

 

 上の諸々の箇所の中で次のことが言われました:すなわち、イスラエルの子らはエフライムの山の中に(籤による)分け前をイエスに与えました;そして、(籤による)分け前を受け取った後、「イエスはそこに町を建設し、そしてその中に居住した[1]」と。しかし、()文書はここで改めてそれらの事柄を再び取り上げて、次のことを付け加えています:すなわち、「岩の諸々の剣」、すなわち、岩でできた諸々の小刀「それらによってイエスは、イスラエルの子らに荒れ野の中で割礼を施しました――を、彼は彼が建設した町、その中に彼が居住したところの町の中に貯蔵した[2]」と。それゆえ、私たちによって解説が繰り返されねばなりません。そして、付け加えられたことが説明されねばなりません。それは、神が恵みを与えて下さることによって、()文書の意味が完全無欠に満たされるようになるためです。

実に私たちは、上の諸々の箇所の中で次のことを言いました[3]:すなわち、私たちの主イエス・キリストも、(ご自分が)建設し、その中に居住するところの場所を私たちから求めておられること、そして私たちが、心において清く、精神において単純で、身体と霊において聖なる者たちとなり、その結果(主が)、私たちの魂の中にも場所を受け取って、それを建設し、その中に居住して下さるようにしなければならないと。しかし、あなたはお考え下さい、いったい誰が、一切の民の中でそのように神に受け容れら得るでしょうか、誰がそのために選ばれるに相応しいでしょうか。それとも、一人ひとりには、おそらくそのための余地があり得ないのでしょうか。あるいは、民の全体と同時にありとあらゆる教会には、主イエスをみすからの内に受け取って、(主が)その中に住む余地はほとんどあり得ないのでしょうか。

ですから私たちは、イエスがその中に居住すべきところの場所が何であるか見てみましょう。(聖文書は)「エフライムの山の中に[4]」、すなわち、「実りをもたらす山の中に」と言っています。イエスがその中に居住すべきところの実りをもたらす諸々の山は何であると、あなたはお考えですか。もちろんそれら(の山々)は、それらの中に、「霊の諸々の実り、喜び、平和、忍耐、愛[5]」などがあるところのものです。ですから、霊の実りをもたらし、精神と希望において常に崇高な人たちが実りをもたらす諸々の山です。そして、たとえそのような人たちが僅かでしかあり得ないとしても、僅かでもいるならば、「真の光[6]」である主イエスは、彼らの中に居住して、ご自分の光の諸々の光線を、原初的にご自分の住居にまだ値しないと(主が)判断した他のすべての人たちの上に注ぐでしょう。



[1] Jos.19,49-50.

[2] Cf.Jos.21,42d(LXX).

[3] Cf.Hom.24,3.

[4] Jos.19,50.

[5] Ga.5,22.

[6] Jn.1,9.