第三講話

二つ半の諸部族と九つ半の諸部族について[1]

 モーセは、ヨルダン川を越えた土地の嗣業地を二つ半の部族、すなわち、ルベン族とガド族とマナセの半部族に分配しました[2]。しかし他の諸部族には、モーセではなく、イエスが土地を分けました。

ところが、ヨルダンを越えた土地を受け取ったあの二つ半の諸々の部族と共に次の合意が結ばれました:すなわち、彼らは、ヨルダンを越えたあの土地の中に自分たちの女たちと幼児たちを残し――これらの人たちも嗣業地を得るまで――、自分たちの兄弟たちと共に戦うという合意が結ばれました[3]。ですから、その合意を結んだモーセの亡き後は、イエスが約束された諸々の事柄を要求し、戦いに赴く兄弟たちに援助をもたらすことを、彼らに思い起こさせねばなりませんでした。それらの事柄を、歴史の文書は物語っています。

しかし、私たちは既に主に回心しました。彼は、「古い契約の朗読から覆いを取り去り[4]」、ご自分を信じる僕たちに、「彼らが、覆いを取り除かれた顔で、主の栄光を反射する[5]」ことを許します。ですから、「彼らに形象的に起こっていたそれらすべての事柄は、代々の諸々の終わりが到来した私たちのために書かれたものである[6]」と、私たちは考えるべきです。それゆえ、既に以前に私たちが言ったように、私たちは文字から霊へ、諸々の形象から真理へ昇ることを試みましょう。そして、モーセを通して嗣業地の土地を受け取るそれらの二つ半の諸部族がどのような形姿を保持しているか、そして、イエスを通して聖なる土地の約束を受け取る残りの九つ半の諸部族がどのような形姿を保持しているかを、私たちは考察しましょう。

そして、すべての事柄の始めに私は次のことを考えます:すなわち、モーセを通して(約束の土地の)取り分を受け取る人たちが皆、初子であることが偶然に起こったというのは不可能であると。実際、ルベンはレアから生まれた初子であり[7]、ガドはジルバから生まれた初子です[8]。そしてマナセは、ヒエロポリスの祭司ポティ・フェラの娘でエジプト人であるアナセトから生まれた初子です[9]。ヨセフは彼女を受け入れました。この私は、モーセを通して嗣業地が定められた人たちが皆、初子たちであることは偶然に起こったとは決して確信しません。むしろ私は、次のことを考えます:彼らの中に二つの民の形姿がそのとき影として素描されていた;一方の民は、自然の秩序を通して生まれた初子と見なされ、他方の民は、信仰と恵みを通して嗣業地の祝福を受け取る、と。

先ず、モーセを通して嗣業地を受け取る人たち、すなわち律法を通して神を喜ばせた人たちに休息が与えられるのは、彼らが諸々の戦闘の中で自分たちの兄弟たちを助けた場合だけです。女たちと幼児たちだけは、モーセを通して休息を受け取ります。しかし、他の人たちは休息しません。彼らは自分たちの兄弟たちの援助のために出て行きます。

あなたは見てください:今日、この生活の戦いの中で労苦している私に、敵たち、すなわち、敵対する諸々の権能に対する戦闘を持つ私に、どのようにして彼ら――私の主なるイエス・キリストの到来の前に律法の中で義とされた人たち――が援助の中で来るのかを。あなたは見てください:どのようにしてイザヤが私に援助を提供するかを――彼が自分の朗読の諸々の言葉によって私を照らすとき。あなたは、エレミアが武装した軽歩兵として私たちの援助のために来るのを見、自分の巻物の諸々の投げ槍によって極めて獰猛な敵たち、私の心の諸々の闇を追い払うの見てください。ダニエルも、私たちの援助のために武装します――彼が、キリストの臨在と君臨について、アンチキリストの来るべき欺瞞について私たちを教え、あらかじめ警告するとき。エゼキエルも傍にいます――諸々の車輪の四つの形姿をもつ諸々の輪の中で天的な諸々の秘蹟を指し示し、「車輪を車輪の中に含ませる[10]」ことによって。ホセアも、十二の預言的隊列からなる諸々の部隊を導きます。そして、「真理の中で諸々の腰を守る[11]」すべての人たちが前進します。彼らはその真理を、彼らの兄弟たちの援助のために宣べ伝えます。それは、彼らの諸々の巻物によって私たちが教えられ、悪霊的な諸々の狡猾さに無知でないようにするためです。

ですから彼らは、武装し、「真理の内に諸々の腰を守り[12]」、私たちの援助のために外に出て、私たちと共に戦う力強い男たちです。しかし、「幼児たちと女たち[13]」は、私たちの戦いのために外に出ません。驚くべきことではありません。なぜなら、話をしない人が幼児と言われるからです[14]。ですから、何も語らない人が、いったいどのような助けを私にもたらすことができたでしょうか。私は、彼から拾い集めるべきものを何一つ見出さず、彼の言葉は私を教えません。しかし、使徒は、女を「弱い器」であると言っています[15]。それゆえ必然的に、「弱い器」は砕かれて滅びないようにするために、衝突に来ません。実に主イエスについても諸々の福音の中で、そのような意味で、「彼は、萎れた葦を砕かなかった[16]」と言われています。ですから女たちは、家の自分の男たちによって教えられるように命令されており[17]、教師たちの位格の中によりは、弟子たちの位格の中に置かれています。それゆえ、私を教えることのできない人――私が見習うべきものや保持すべきものを何も見いだせない人――は、私の援助に来ません[18]



[1] Jos.1,2.

[2] Cf.Jos.13,8.

[3] Cf.Jos.1,14; Nb.32,26.

[4] 2Co.3,14.

[5] 2Co.3,18.

[6] 1Co.10,11.なお、形象的(figuraliter)、形象(figura)、形姿(forma)と訳す。従来、私は、「象徴()」と一括して訳したが、直訳の本旨に反するので、日本語としての不自然さを顧みず、訳し分けることにする。

[7] Gn.29,32.

[8] Gn.30,10.

[9] Gn.41,50:なお、新共同訳では、「ヒエロポリス」は「オン」になっている。

[10] Ez.1,16.

[11] Ep.6,14.

[12] Ep.6,14.

[13] Jos.1,14.

[14] ラテン語でもギリシア語でも、「幼児」(infans / nh,pioj)は、「言葉のない人・語らない人」を意味する。

[15] Cf.2Co.4,7 et 1P.3,7.

[16] Mt.12,20.

[17] Cf.1Co.14,35.

[18] オリゲネスは、女性を蔑視しているわけではない。彼は、聖文書における女性の記述については比喩的に解釈する。彼は、女性の英雄的殉教を賛美さえする(Hom.Jg.IX,1)