ですから私たちは、モーセが分配した土地から来たあの人たちが、イエスに何を言っているかを聞きましょう:「私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたにも聞き従いましょう[1]」と、(彼らは)言っています。モーセに聞き従う人が皆、私たちの主であるイエスにも聞き従うことほど真実なことはありません。実際、彼はイエスについて書きました。それゆえ主も、福音の中で彼らを責め、彼らはご自分を信じないことによって、モーセをも信じていないことを明らかにしています。彼は言っています:「もしもあなた方が私を信じていれば、私をも信じているだろう。なぜなら彼は、私について書いたからだ[2]」と。

しかし、次のことも無益なことでないように私には見えます:モーセを通して(嗣業地を)分配された部族は全部で三つの部族ではなく、イエスを通して嗣業地を所有したの部族は全部で九つの部族ではありません。前者では二つ半(の部族)、後者では九つ半(の部族)でした[3]。そして、一つの部族が二つの部分に分割されることによって、前者では三という数字が完全に満たされておらず、後者では十(といういう数字)が充全かつ完全に達成されていません。私は、そのことの中に次のことが示されていると考えます:すなわち、律法によって導かれていた前出の人たちは、確かに三位の知識に接しましたが、完全無欠に接していたのでなく、「部分から[4]」接していた、と。なぜなら彼らには、三位の中で独り子の受肉について認識することが欠けていたからです。実際、たとえ彼らが彼の到来について信じていても、そして、たとえ彼らが彼のその他の諸々の経綸について信じるばかりでなく、宣べ伝えるにしても、彼らが信じている諸々の事柄を見ること、それらに到達することはできませんでした。それは、主が彼らについて、ご自分の弟子たちに次のように言っているとおりです:「多くの預言者たちと義人たちは、あなた方が見ている諸々の事柄を見ることを熱望したが、見なかった。そして、あなた方が聞いている諸々の事柄を聞くことを熱望したが、聞かなかった[5]」と。実に彼らの信仰は、完全無欠ではありませんでした。なぜなら()肉の経綸は、キリストの中でまだ成し遂げられていなかったからです。そして、私たちは今、そのことが既に起こり成し遂げられたことを信じていますが、彼らは将来に起こるだろうということだけを信じていました。

ですからそれゆえ、かの諸部族は二つではありません。それは父祖たちが三位の信仰と救いの外にいないようにするためです。また(それらの部族は)完全無欠な三ではありません。それは、幸いな三位の秘蹟がかの諸部族の中で既に全うされたものとして見られないようにするためです。もちろんそれらは、三という数に接していました。そして、主が言ったように、「それらは、私たちが見ている諸々の事柄を見ること、そして、私たちが聞いている諸々の事柄を聞くことを切望しました[6]」。しかし、ほとんど(そのことが)できませんでした。なぜなら、人間の子はまだ「上げられて[7]」おらず、「諸々の時の充満はまだ来て[8]」いなかったからです。

しかしここで、ある事柄が私をもっと遠くに動かします。私は次のことを考えます:おそらく、イエスの到来と彼の受肉の中でも、私たちは、完全無欠なものを学ばないでしょう。そればかりか、彼が既に十字架に導かれ、あらゆる事柄において全うされたとしても、また、彼が死者たちから復活したとしても、完全なありとあらゆる事柄が私たちにおのずから明らかになっていません。あらゆる事柄を私たちに開示し啓示する業を、私たちは今もなお別の方の内に持っています。諸々の福音の中で主が次のように言うのを、あなたはお聞き下さい:「私は、あなた方に言わねばならない事柄をまだ多く持っている。しかし、あなた方はそれらの事柄をいま聞くことはできない。しかし、父から発出する真理の霊が来て、私から受け取り、あなた方にすべての事柄を知らせるだろう[9]」と。あなたは次のことを見るでしょう:あの三という数は、モーセの許で全うされたものとして示されていないだけでなく、いまでもイエスはご自分の弟子たちに言っています:まだあなた方は、聞くことはできない――あの弁護者、真理の霊が来なければ。なぜなら、彼を通して、彼の中で、三位の完全性は満たされるからです。実際、イエスという指導者の下に行動する諸部族が九つ半であって、完全無欠な十でないということ――この十という数は、あらゆる事柄において完璧な完全数であると言われています[10]――についても、疑いもなく同じ理由が見出されます:すなわち、主イエスによって聖霊に留保されていると言われている事柄は半分であり中間的であるように見えることです。実際、主と救い主とによって、悔い改めと諸々の悪から諸々の善への回心が宣べ伝えられ、信じるすべての人たちに諸々の罪の赦しが与えられ、そして、十という完全に向かっているように見えるすべての事柄が成就されても、あらゆる諸々の善の完成と合計は、彼の中にあります――もしも、それらすべての事柄の後で、誰かが聖霊の恵みを受け取るのに相応しいとされるなら。さもなければ、聖霊が不在な人の中にいかなる完成も考えられないでしょう。なぜなら聖霊を通して、幸いな真意の神秘が全うされるからです。

あなたは、さらに私があなたに次のことをもっとはっきりと証明することをお望みですか:すなわち、モーセが二つ半の諸部族の中で影として素描していたあの前出の民の許では、すべての事柄が完全でも無欠でもなかったことを。このヌンの()イエスの小著の中に書かれている歴史も、次のように言うとき、(そのことを)明言しています:すなわち、イエスが分配したあの土地の中には確かに真の祭壇がありました[11];しかし、ヨルダン川を越えたところにいたかの人たち、すなわち、ルベンとガドとマナセの半部族は、自分たちのために祭壇を作りました[12];しかしそれは、真の祭壇ではなく、イエスの許にあった真の祭壇の予型と形姿を持っている祭壇でした。ですから、無欠でも真でもない祭壇を建設した彼らが、三位の無欠の知識を受け取っていなかったとしても、あなたは決して驚くべきではありません。

それゆえ彼らによって、多くの敵たちが倒されたとか、敵対する諸々の力の多数の王たちが倒されたとは言われておりません。彼らはただ、アモリ人たちの王シホン[13]とバシャンの王オグとアマレク人たちヨルダン川を越えたところで倒したと(聖文書は)言っています。それに対しイエスは、軍隊を導くと、諸々の洞窟の中に逃げた五人の王が同時に倒れます。そして、彼らは倒れるばかりでなく、木の中に吊されます[14]。またあるときは、二十九人が同時に喉を切られ[15]、敵軍の膨大な数が打ち倒され、すべてが駆逐されます[16]――彼らは、聖なる地を、諸々の汚れの内に所有しています;彼らは、父と密の流れる地を邪悪の苦味の中に保持しています。



[1] Jos.1,17.

[2] Jn.5,46.

[3] Jos.14,2-3.

[4] 1Co.13,9.

[5] Mt.13,17.

[6] Cf.Mt.13,17.

[7] Jn.3,14.

[8] Ga.4,4.

[9] Jn.16,12-14.

[10] Cf.Philon, Plant.,123-126; Decal.20-32; HomGn.XVI,6; Hom.Lv.XIII,4; Hom.Jos.IV,4.

[11] Cf.Jos.8,30.

[12] Cf.Jos.22,10.

[13] Cf.Nb.21,21s.

[14] Cf.Jos.10,5.16-26.

[15] Cf.Jos.15,32.

[16] Cf.Jos.11,4.