しかし、最後に私たちは、その遊女が誰であるかを見てみましょう。彼女はラハブと言われています[1]。ところでラハブは、広さと解釈されます。ですから、遊女のような罪人たちから集められたこのキリストの教会以外に、どのような広さがあるでしょうか。そして、(シオンは)言っています:「私にとって場所は狭いです。私のために私が住める場所を作って下さい。しかし、誰が私のためにこれら(の子ら)を育てたのか[2]」と。また、彼女に向かって次のように言われています:「あなたは、あなたの諸々の杭を広げなさい。そしてあなたは、あなたの諸々の天幕を拡げなさい[3]」と。ですから、イエスの探索者たちを迎えた「広さ」はそのようなものです。

私は、あるとき、ある教会の中で、二人の遊女について議論したとき――彼女たちについては、王たちの第三書[4]の中に書かれています。彼女たちは、ソロモンの裁きの許に来ました。彼女たちの一人は生きている幼児を持ち、他の一人は死んでいる幼児を持っていました[5]――、私は(それらの箇所を)より注意深く検討し、次のように言ったのを覚えています:一方の女は、かのソロモンではなく、「諸々の天の中にある諸々のものと諸々の地の中にある諸々のものの平和を作るために来た[6]」方としてのソロモンが、生きている幼児が返されるように命じたところの遊女であり、他方、死んだ幼児を持っている女は、あの前出の民の会堂あるいは異端の中に逸れた人たちの会堂であると。

また、別の遊女もいます。預言者は、ホセアの中で彼女を受け入れるように命じられています[7]。彼女は、疑いもなく、諸国民から集められた女の形象の中にあります。

ですから、イエスの探索者たちを迎えたこの遊女は、実にそのような者であると言われています。しかし彼女は、迎えられた彼らをより高い諸々の所の中に置き、信仰の高く崇高な諸々の秘蹟の中に据えます。実際、イエスによって派遣される人は誰一人として可能の地面の上に横になって見出されません。むしろ彼は、より高い諸々の所の中に留まります。そして、彼だけがより高く崇高な諸々の所に留まるばかりでなく、彼らを向けたあの遊女も、いまや遊女から預言者になります。実際、彼女は言っています:「私は、あなた方の神なる主があなた方にこの土地を渡したことを知っています」と。あなたは、どのようにして、かつて不敬虔で汚れた遊女だった女がいまや聖霊に満たされ、過ぎ去った諸々の事柄について告白し、現在の諸々の事柄について信じ、未来の諸々の事柄について預言し告げるかをご覧下さい。ですから、広さと解釈されるラハブはそのようにして広げられ、「全地の中にその声が及ぶ[8]」ところまで前進します。

そればかりか、ヤフェトも同じような仕方で「拡張」と解釈されます[9]。もちろん彼は、「諸国民の中から[10]」救われる民の形姿を担っていました。そして少年カナンは、父によってヤフェトとヤフェトの兄弟セム――セムは、割礼から救われる人たちの形姿を帯びています――に(彼らの)僕として従わされます[11]。ここにおいて、神の善意と摂理は賞賛されるべきです。神は、罪人であるカナンに救済策を提供することと、彼に救いをもたらすことを望み、彼を自分の兄弟たちの僕にしました――エサウが、自分の兄弟ヤコブに仕えるようにさせられたのように[12]――それは、彼が滅びるためではなく、より善い者たちに従うことによって救いを獲得するためです。

実際、自分たち自身を支配することを知らない甚だしい悪人たちと罪人たちにとって、自分たち自身に身を委ねず、聖なる人たちの僕になり、より善い者たちに従うことによって、自分の悪しき考えによらず、彼らの善き考えによって支配されることは、望ましいことです。あなたは、主の善意がどれほど大きいかをご覧になっています。主はその善意を大衆の諸々の耳から隠し隠蔽し、その善意を諸々のより厳しい言葉で覆います[13]――それは、悪い僕が自分の主の過大な善意を理解して[14]、恩知らずの軽蔑者にもならないようにするためです[15]



[1] Cf.Jos.2,1.

[2] Is.49,20-21.

[3] Is.54,2.

[4] 列王記上をさす。

[5] Cf.1R.3,16-28.

[6] Col.1,20.

[7] Os.1,2.

[8] Ps.18,5.

[9] Cf.Gn.9,27.

[10] Rm.9,24; Is.45,20.

[11] Cf.Gn.9,18-25.

[12] Cf.Gn.25,23;27,37.

[13] Cf,Gn.9,25.

[14] 「主の善意を当てにする」ということ。

[15] Cf.Rm.2,4.