しかし、あの賢明な遊女が探索者たちと何を行ったかを、私たちは見てみましょう。彼女は、彼らに神秘的で天的な助言を与えています。それは地的なものを何も持っていません。「諸々の山を通って、あなた方は離れて下さい[1]」;あなた方は、諸々の谷を通って入ることを望まないで下さい;あなた方は、諸々の低劣なものと諸々の破毀されたものを避けて下さい;あなた方は、いと高く崇高な諸々の事柄を宣べ伝えて下さい、と。他方、彼女は緋色のしるしを自分の家の中に置きます[2]。彼女はそのしるしによって、町の破壊から救われることになっています。彼女が受け取るしるしは、緋色のしるし以外の何物でもありませんでした。それは、血の形姿です。実に彼女は、キリストの血の中を除いてはいかなる物の救いもないことを知っていました。

さらに、次の命令が彼女に与えられます:「あなたの家の中に見出されたすべての人たちが救われるだろう。しかし、誰かが家から出て行ったなら、私たちは、あなたのこの誓いを免除される[3]」と、(聖文書は)言っています。ですから、救われることを望む人は、かつて遊女がいたこの家の中に来るべきです。たとえ、かの民の誰かが救われることを望むとしても、その人は、救いを得ることができるように、その家の許に来るべきです。その人は、贖いのしるしとしてのキリストの血がその中にあるところの家に来るべきです。なぜなら「彼の血は私たちの上と私たちの子らの上に[4]」と言った人たちの許に、断罪のためのキリストの血があるからです。実際、イエスは、「多くの人たちの破滅と復活のために」置かれました。したがって彼の血は、彼のしるしに反対する人たちにとって罰になり、信じる人たちにとって救いになります。

ですから、誰も勝手に思い込まないで下さい。誰も自分自身を欺かないで下さい。すなわち、この家の外で、すなわち、教会の外で、救われる人は誰もいません[5]。もしも人が外に出たなら、その人は自分の死の責任者になります。ここに、血のしるしがあります。なぜならそこには、血を通して成り立つ浄めもあるからです。

他方、そのしるしが窓の中に掛かっていることについては[6]、次のことが示されていると、私は思っています:すなわち、窓は、家を照らすものです;そして私たちは、その窓を通して、光の余すところのない全体でなく、私たちの諸々の目と視覚とに十分なだけの量の光を捉えます。ですから救い主の受肉も、私たちに神性の純粋で完全無欠な視覚を投げ込んだのではなく、私たちがあたかも窓を通すかのように、彼の受肉を通して神性の光を見るようにさせました。ですから、救いのしるしは、窓を通して与えられるように私には見えます[7]

そのしるしによって、すべての人たちが救いを得ますように――かつて遊女だった女の家の中に見出され、水と聖霊の中で、そして主にして救い主なる私たちのイエス・キリストの血の中で浄められた人たちが。彼に、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[8]」。



[1] Jos.2,15.

[2] Cf.Jos.2,18.

[3] Jos.2,17.

[4] Mt.27,25.

[5] Cf.Hom.Jr.V,16.

[6] Cf.Jos.2,18.

[7] Cf.Hom.Ct.III.

[8] 1P.4,11.