以前に何と多くの事柄が行われたことでしょう。紅海が諸々の足によって過ぎ越され、マンナが天から与えられ、諸々の泉が荒れ野の中で噴き出し、律法がモーセを通して与えられ、諸々のしるしと諸々の驚異が荒れ野の中で行われました。そしてどこにも、イエスは「高揚された[1]」とは言われていません。しかし、ヨルダン川が過ぎ越されたとき、イエスに向かって「この日の中で、私は、民の見ている中であなたを高揚することを始める[2]」と言われます。実際、洗礼の神秘の前にはイエスは高揚されません。しかし、彼の高揚しかも民の見ている中での高揚は、その時から始まりを取ります。実際、「キリスト・イエスの中で洗礼を施されたすべての人たちが、彼の死の中で洗礼を施される[3]」なら、他方、イエスの死は十字架の高揚の中で全うされるとすれば、当然、信じる人たちの一人ひとりにとって、洗礼の神秘に到達するとき初めて、イエスは高揚されます。なぜなら、次の言葉はまさにそのような意味で書かれているからです:「神は彼を高揚した。そして彼に、一切の名前を超える名前を賜った。それは、イエスの名前の中で、諸々の天的なものと諸々の地的なものと諸々の地下的なものの一切の膝が曲がるためである[4]」と。

 しかし、祭司たちを通して民は導き出され、そして、祭司たちの指導によって約束の地への旅を行います。そして、誰が今日、祭司たちの中で、その位階の中に登記されるに値する程の資質と偉大さを備えた人物がいるでしょうか。実際、もしもある祭司がそのような者であるなら、ヨルダン川の諸々の流れは彼から退き、そして、諸々の元素そのものは敬意を抱くでしょう;流れの諸々の水の一部は、後ろの方へ飛び跳ね、背後で轡を掛けられるでしょう。他方、(他の)一部は、塩辛い海の中に急いで、流れ四散するでしょう。

 しかし次のこと、すなわち、ヨルダン川の諸々の水の一部が海の中に沈み込み[5]、苦味の中に流れ込むとともに、他方で(他の)一部が甘味の中に存続するのも、神秘の理拠を欠如しているわけでもないと、私は思っています。実際、洗礼を施されるすべての人が、受け取られた天的な恵みを保持するなら、そして(彼らの内の)誰一人として、諸々の罪の苦味の中に転向しないとすれば、とにかく、次のことは書かれなかったでしょう:流れの一部は塩海の諸々の渦の中に沈められた、と。したがって、それらの言葉の中に、受洗者たちの違いが示されているように私には見えます。その違いは――私は痛みを伴いつつ思い起こします――しばしば生じるのを、私たちは見ます:すなわち、聖なる洗礼を得た人が、再び代の諸々の生業と諸々の欲望の諸々の魅惑とに身を託すとき、そして、貪欲の盃を飲むとき、彼らはあの(諸々の水の)一部――海の中に流出し、諸々の塩波の中に消え去る(あの諸々の水の一部)――の中で描写されます。しかし、安定性の内に存続し、自らの甘味を保つ(諸々の水の)一部は、受け取られた神の恵みを一途に保持する一体を示しているでしょう。そして、救われる者たちの(保持する諸々の水の)部分が一つであることは、当然です。なぜなら、「天から降ってきて、この世に命を与える[6]」パンは一つであり、「信仰は一つ、そして洗礼は一つ、そして霊は一つ」――その霊によって、すべての人が洗礼の内に潤されます――「すべてのものの父なる神も一人[7]」だからです。

 他方で、エジプトから脱出した神の民旅路を示す祭司的レビ的位階が存在します。実に彼らは民に次のことを教える人たちです:エジプトから、すなわち、世の諸々の誤りから脱出すること、そして、広大な荒れ野を通って過ぎ越すこと、すなわち、諸々の試練の様々な種類を駆け抜けること、悪霊たちの諸々の噛み付きである諸々の蛇によって害されないこと、そして、悪しき諸々の唆しの諸々の魅惑を避けることを、彼らは教えます。しかし、もしもある人が荒れ野の中で蛇によって打たれるようなことがあったなら、(祭司たちやレビ人たちが)その人に、十字架の中に掛けられた「青銅の蛇」を示すことによって、それを見た人――すなわち、その蛇をその形象を示していた床との方を信じた人――は、諸々の悪霊的な誘惑を回避するでしょう[8]

 祭司的レビ的位階は、神の律法がその中にあるところの主の「契約の箱」に付き添う人たちです[9]。疑いもなくそれは、彼らが、神の諸々の命令について民を照らすためです。それは、預言者が次のように言っているとおりです:「主よ、あなたの言葉は私の諸々の足にとって灯火、そして、私の諸々の小径にって光です[10]」と。しかし、もしもこの位階に属するある人が、「点火された灯火を、家の中にいるすべての人たちのために輝かすために燭台の上に置かず、升の下に置いたなら[11]」、その人は、何が自分によって為されるべきかを見るべきである――祭司たちからいかなる照明も受けなければ、諸々の暗闇の中を歩み、諸々の罪の闇によって盲目にされた人たちのために、光の釈明をし始めるとき。



[1] Jos.3,7.

[2] Jos.3,7.

[3] Rm.6,3.

[4] Ph.2,9-10.

[5] Jos.3,16.

[6] Jn.6,33.

[7] Ep.4,4-6.

[8] Cf.Nb.21,6-9.

[9] Cf.Jos.3,6.

[10] Ps.118,105.

[11] Mt.5,15.