しかし、いつ彼らは、ヨルダン川の過越に来るのでしょうか。私は、次のことも(前々から)指摘していました:時間も特定されることは理由なく記されているのでない、と。「第一の月の十日に[1]」と、(聖文書は)言っています。まさにその日は、子羊の神秘もエジプトの中で先取りされた日です[2]。「最初の月の十日」に、それらの事柄がエジプトの中で祝われます。「最初の月の十日」に、彼らは約束の地に進入します。次のことは大いに幸いであると私に見られます:人が代の諸々の誤謬を避けたのと同じ日に――すなわち、私たちがこの代の中で生活するのと同じ日に――、さらにその人が約束の地に進入するに相応しいとされること。実際、私たちの現在の一切の生活は、一つの日の中に表示されます。そしてしたがって、私たちはその神秘によって教えられます:私たちは、私たちの諸々の行いと議の諸々の業を翌日に延ばすべきでなく、むしろ「今日[3]」、すなわち、私たちが生きている限り、私たちがこの世の中に留まる限り、完成を目指す一切の事柄を私たちは急いで成し遂げること;そしてそのようにして私たちは、まさに「最初の月の十日」に、約束の地に、すなわち、完成の至福に入るできること、を。

そればかりか、もしもあなたが注意深く観察するな、他の極めて多くの事柄が、(聖なる)諸々の文書の叙述によって、この(十日の)日の中に集約されることを、あなたは把握するでしょう。それらの一つひとつについて、目下の教話が私たちによって、私たちが望む以上に延ばされないようにするために、その(十日の)日が(他の日に比べて)より頻繁に反復されることについて次のことが考えられるべきです:一つの完成が私たちにとって一般的ですが、私たちが展開することに取り組む諸々の徳の一つひとつの種を、もしも私たちが完全無欠に成し遂げることができたなら、その(一つのひとつ)の特にそのそれぞれの完成が属しています。たとえば、怒りやすい人が柔和さの徳を獲得することを熱望するなら、彼は疑いもなく最初に多くの事柄の中で(障害に)遭遇します――長い修練によって多時間の(徳の)行使を本性に変えるまで。そして、彼が意図していた事柄を取得したとき、彼は確かに柔和さの完成を獲得します。しかしそのことから、さらに、彼がすべての諸々の徳の完成を所有することにはなりません。ですからそのように、一つひとつの諸々の徳によって、多くの諸々の完成が見出されます。しかし、一般的な完成は、すべての諸々の完成の頂点をそれ自身の中に含んでいるものです。ですからそのようなわけで、多くの諸々の行いは――多くの諸々の完成が一つの終極に向かうことを示すために――、この(十日の)日の中に集約されます。それは、預言者も言っているとおりです:「私の魂は、大いに遍歴しました[4]」と。また、「(彼らは)一つひとつの日を通して私に言います:「あなたの神はどこにいるのか」と。私は次の諸々の事柄を思い起こした。そして、私は、私の中に私の魂を注ぎ出した――私は、驚嘆すべき幕屋の場所の中で、音を立てて祭りを祝う者たちの歓喜と感謝の声の中で神の家の許にまで過ぎ越すことを[5]」。

実際、この世の荒れ野の中で私たちが堪え忍んだそれらの諸々の労苦と諸々の試練の後で、紅海の過越の後で、ヨルダン川の流れの後で、もしも私たちが約束の地に入ることに値する者とされたなら、私たちは喜びと歓喜ともに(そこに)到達するでしょう――私たちの救い主キリストである主の祭司たいに従って。「彼に、栄光と力が代々にありますように。アーメン[6]」。



[1] Jos.4,19.

[2] Cf.Ex.12,3.

[3] He.3,13.

[4] 1Co.3,12.

[5] Ps.41,4-5; cf.Hom.Nb.27,4.

[6] 1P.4,11.