第五講話

ヨルダン川を過ぎ越した二つ半の諸部族について。そして、イエスについて――どのようにして主は、イスラエルの子らの目前で彼を高めたか、そして、どのようにして(イエスは)民に割礼を施したか。

 実に紅海を過ぎ越した人たちについて、使徒は次のように言っています:「すべての人たちがモーセにおいて、雲の中と海の中で洗礼を授けられた[1]」。しかし、ヨルダン川を過ぎ越した人たちについて、私たちも、同じような仕方で次のように表明することができます:すなわち、すべての人たちはイエスにおいて、ヨルダン川の中で洗礼を授けられた;その結果、ヨルダン川の中で行われたと述べられている諸々の事柄は、洗礼を通して挙行される秘蹟の形象を保持している、と。

ところで、次のように書かれていること:すなわち、「そして、民は急行し、そいて、ヨルダン川を渡った。そして次のことが起こった:一切の民が過ぎ越したとき、主の契約の箱も過ぎ越した[2]」と書かれていることに関して、聖霊が「民は過ぎ越すことを急いだ」と言っていることは、聖霊によって無益に付け加えられたのでないと、私には見えます。それゆえ私も、次のように思います:すなわち、救いをもたらす洗礼の許に来て、そして、神のみ言葉の諸々の秘蹟を受け取る私たちは、暇つぶしにかつ怠惰に物事を行うべきではなく、急ぐべきであり、私たちが一切の事柄を過ぎ越すまで、急いで突き進むべきであると[3]

実際、一切の事柄を過ぎ越すことは、命令されているすべての事柄を成し遂げることです。ですから私たちは、過ぎ越すことを急ぐべきです。すなわち、まず最初に、「精神において貧しい人たちは幸いである[4]」と書かれていることを成し遂げることを急ぐべきです――それは私たちが、一切の高慢を破棄し、キリストの謙虚さを受け入れることによって、約束された至福に到達することに相応しいと見なされるためです。

しかし、私たちがそのことを成就したとしても、私たちは立ち尽くすべきでもなく止めるべきでもなく、続く他の諸々の事柄、すなわち、「私たちが正義に飢え、そして乾くこと[5]」を過ぎ越すべきです。さらに続く事柄、すなわち、この世の中で「私たちが泣き悲しむこと[6]」を、私たちは過ぎ越すべきです。そして、他の諸々の事柄、すなわち、「私たちが柔和になること[7]」、そして、「私たちが平和をもたらす人のままでいるこ」――それによって私たちが「神の子ら」という言葉を聞くことができます[8]――も速やかに過ぎ越すべきです。また私たちは、諸々の迫害の重荷を忍耐の徳によって過ぎ越すことを急ぐべきです。とにかく、徳の栄光を目指すそれら一つひとつの事柄を無為にではなく、怠惰にでもなく、一切の熱意と迅速さでもって獲得するとき、それが、ヨルダン川を急いで過ぎこするときです。しかし、私たちが過ぎ越し、獲得すべきものを獲得できたとしても、勤勉さと注意との気遣いが私たちに続きます――それは、私たちの諸々の歩みが、より怠惰に進行することによって、何らかの予期せぬ滑落によって横転させられないようにするためです。それは預言者が言っているとおりです:「私の歩みは、危うく横転させられるところだった[9]」と。私たちにとって、諸々の徳を獲得することにおいてばかりでなく、(それらを)保持することにおいても、気配りは緩めるべきではありません。



[1] 1Co.10,2.

[2] Jos.4,10-11.

[3] Cf.Platon, Théètète, 176:「我々はできるだけ早く、こおから神々の御座所へ逃避するように努めねばならない。ところで、この逃避は神との類似の中に成り立つ。そして人は、知恵と正義と聖性によって彼に似る」; cf.Balthazar, Le mysterion d'Origène,Rech.Sc.Rel.,26(1936), p.520. et H.-Ch.Puech, La mystique d' Origène,RHPR,12(1933),p.523sv.

[4] Mt.5,3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(新共同訳)

[5] Mt.5,6.

[6] Mt.5,4.

[7] Mt.5,5.

[8] Mt.5,9.

[9] Ps.72,2.