それともそれらの事柄は、次のことの内にあなたに示されていると見えませんか:すなわち、次のように言われています:「男たちの中で四万の武装した者たち――あるいは軽装した者たち――は、エリコの町を攻撃するために、主の目前の中で過ぎ越した[1]」と。()文書が「武装した者たち」や「軽装した者たち」と言っている人たちは誰なのか、私たちは探求しましょう。この私としては、私自身から何かを憶測したり、公言したりする勇気はありません。むしろ使徒の似たような諸々の文字の中で教えられます。彼ら「武装した者たち」は誰なのかを、パウロが説明しているので、私たちは学びましょう。彼自身が何を言っているかを、あなたはお聞き下さい:「ですからあなた方は、あなた方の諸々の腰を真理の中で締めなさい[2]」と。ですからパウロは、「武装した人たち」が真理の鞘帯で締めた人たちであることを知っていたことが、あなたにはお分かりです。したがって、真理が私たちの剣帯であるべきです――もしも私たちが、この軍役と剣帯の秘蹟を保持したなら。実際、もしも真理が私たちの剣帯――それによって私たちはキリストの軍役のために締めます――なら、もしもあるとき私たちが偽りを語り、私たちの口から嘘が発出するなら、私たちは、キリストの軍役から解除され、真理の肩帯から解放されます。ですから私たちは、もしも真理の中にいるなら(帯を)締めまが、もしも偽りの中にいるなら(帯を)解かれます。とにかく私たちは、「主の目前の中で戦いのために前進する、あの四万の武装した男たち[3]」を模倣しましょう。そして私たちは、常に真理の中で武装しましょう。

しかし私は、()文書が付け加えていることを無精に見過ごしません:すなわち、「主の目前の中で武装した(男たちは)[4]」とあります。実際、人間たちの許であなたが真理を守っているように見られるのでは十分ではありません。なぜなら、人間たちを欺し、かつ、真実らしく見られることは可能だからです。しかし、そのことからあなたは、真理の中で(帯を)締めたことにはなりません――もしもあなたが「主の目前の中で」真理を守らなかったなら、すなわち、人間たちが(口先の)声において聞く真理ばかりでなく、神が心の中に見通す真理を保持しなかったなら。舌の中に、いかなる偽りもあってはなりません。心の中に、いかなる粉飾もあってはなりません――預言者が、次のような人たちについて言っていることに即して:「彼らは、自分の隣人と一緒に平和を語るが、彼らの諸々の心の中には諸々の悪がある[5]」と。ですから、「主の目前の中で武装して」、エリコを攻撃するために前進するひとは、それらの(悪い)事柄と無縁であるべきです。なぜなら、ヨルダンの川を過ぎ越す私たちは、諸々の攻撃と諸々の戦闘のために過ぎ越すからです。

あなたは、私たちが洗礼の後にどのような諸々の攻撃と、どのような諸々の戦闘を受けるかを再び学びたいですか。私から学ぼうとしないで、使徒パウロ自身から再び学んで下さい。彼はあなたに教えて言っています:「実際、私たちには、肉と血に対する戦闘があるのでなく、諸々の支配に対する、諸々の権能に対する、諸々の闇のこの世界の支配者たちに対する、諸々の天における邪悪の諸々の霊的なものに対する戦いがあります[6]」。書かれている諸々の事柄は、諸々の形姿と諸々の形象です。実際、使徒はそのような意味で次のように言っています:「実際それらすべての事柄は、形象の内に彼らに起こり、諸々の代の諸々の終わりに臨んだ私たちのために書かれました[7]」と。ですから、もしも(それらの事柄が)私たちのために書かれたものなら、あなたはなぜ止めるのですか。私たちは戦闘に出ましょう――私たちによって、悪というこの要の第一の都市が攻略されるために、そして、罪という思い上がった諸々の防壁が破壊されるために。おそらくあなたは見回すでしょう――あばたがどのような旅路を前進すべきか、戦闘のどのような野原が求められるべきかと。おそらくあなたには、私がこれから言おうとすることが新奇に見えるでしょう。しかし、それは真実です。あなたは、あなたご自身を除いた外側に何も求めるべきではありません。あなたが行うべき戦いは、あなたの内部にあります。掘り崩すべき悪しき建物は内側にあります。あなたの敵はあなたの心から前進します。それは、私の声ではありません。キリストの声です。実際、彼が次のように言うのを、あなたはお聞きください:「実際、諸々の悪い考え、諸々の殺人、諸々の姦淫、諸々の淫行、諸々盗み、諸々の偽証、諸々の冒瀆は、心から前進する[8]」と。あなたは、どれほど多くの、そしてどのようなあなたの敵たちの軍隊が、あなたに対して、あなたの心から前進するかお分かりです。それらこそ、私たちによって、最初の殺戮によって掘り崩されるべきです。それらこそ、最初の戦いで打ち倒されるべきです。もしも私たち、それらの諸々の防壁を掘り崩し、彼らを根絶のために殺戮して、息をついたり振り返ったりする人が彼らの中に残らないようにできたなら[9]、もしも彼らの中から、私たちの諸々の考えの中で生き返って出現する人がもはや一人もいなくなったなら、そのとき私たちに、イエスを通してあの安息が与えられるでしょう――「一人ひとりは、自分のブドウの木の下に、そして自分の無花果の木の下に休らうだろう。なぜならイスラエルの子らを脅かすものはもはやないからだ[10]」とあります。



[1] Jos.4,13.

[2] Ep.6,14.

[3] Jos.4,13.

[4] Jos.4,13.

[5] Ps.27,3.

[6] Ep.6,12.

[7] 1Co.10,11.

[8] Mt.15,19.

[9] Cf.Jos.1,14.

[10] Mi.4,4.