それらの事柄の後で、ヌンの子は、「岩から諸々の刃物を作り、座して、イスラエルの子らに再び割礼を施す」ように命じられています[1]

私としてはこの箇所において、ユダヤ人たちに尋ねたいと思います――どのようにして人は、再び肉的な割礼によって割礼を施され得るのか、と。実際、一度、割礼を施されると、一はもはや、取り除かれ得るものを持ちません。しかし、「律法は霊的である[2]」と言われている私たちによって、それらの事柄がどれほど相応しくかつ適切に解決されるかを、あなたはご覧下さい。実際、私たちは次のように言います:律法の中で教育され、そしてモーセを通して教えられた者は、偶像崇拝の諸々の誤謬を捨て去り、諸々の贋物の迷信と崇拝を捨てました。それが、律法を通した第一の割礼です。しかし、もしも彼が律法と預言者たちから福音的信仰の許に来るなら、そのとき、彼は、「キリストである岩[3]」を通して第二の割礼も受け取ります。そして、主がイエスに言ったことも成就します:「今日、私は、イスラエルの子らからエジプトの恥辱を取り除いた[4]」と。

しかし、使徒が「彼らはしかし、ついてきた霊的な岩から飲んでいました。ところで、岩はキリストでした[5]」と言っていたように、私たちもこの箇所中で適切に次のように言うことができます:「私たちはしかし、ついてきた霊的な岩から割礼を施されました。ところで、岩はキリストでした」と。実際、もしも人が、福音を通して第二の割礼によって清められていなければ、彼は、エジプトの恥辱、すなわち、身体的な諸々の悪徳の諸々の誘惑を取り除くことができません。



[1] Jos.5,2.

[2] Rm.7,14.

[3] 1Co.10,4.

[4] Jos.5,9.

[5] 1Co.10,4.