しかし私たちは、「今日、私はイスラエルの子らから恥辱を取り去った[1]」と言われていることそれ自体がどのようなことか見てみましょう。

すべての人たちは、たとえ律法から来ているとしても、たとえモーセを通して教育されたとしても、自分たち自身の中にエジプトの恥辱、諸々の罪の恥辱を持っています。律法の遵守に即してさえ、誰がパウロに似るでしょうか。彼が次のように言うのを、あなたはお聞きください:「(私は)律法の中にある正義に即して、非の打ち所なく暮らしてきた[2]」と。しかし、彼自身が宣言し、言っています:「実際、私たちもかつて、無分別で、不信心で、迷い、様々な諸々の欲望と諸々の快楽とに仕え、悪意と妬みとの中におり、嫌がられ、互いに嫌っていました[3]」と。それらの恥辱は、エジプトの諸々の恥辱でもあると、あなたには見えませんか。しかしキリストが来て、「再生の洗礼[4]」を通して私たちに第二の割礼を与え、私たちの諸々の魂を清めて以来、私たちは、それらすべてを投げ捨てました。そして私たちは、それらの代わりに、神に対する真心からの関わりを始めました。そのとき、第二の割礼によって、エジプトの諸々の恥辱は私たちから取り去れ、諸々の罪の諸々の悪徳は清められました。ですから、もしも完全無欠に改心したなら、もしも心から悔い改めたなら、もしも信仰深くヨルダン川の諸々の流れを用談したなら、もしも福音を通した第二の割礼によって清められたなら、諸々の過ぎ去った過失の諸々の恥辱を、誰も恐れるべきはありません。「今日、私はエジプトの恥辱をあなたから取り去った[5]」という言葉を、あなたは聞いています。

そのこを、諸々の福音の中でも、主は次のように言うとき、意味しています:「あなたの諸々の罪は、あなたのために赦された。しかし、もうあなたは罪を犯すことを望んでなならない。何かもっと悪いことがあなたに起こらないようにするために[6]」。実際、もしもあなたが、諸々の罪の赦しの後で、もはや罪を犯さないなら、エジプトの恥辱は本当にあなたから取り去られています。それに対し、もしもあなたが再び罪を犯したなら、再びあなたの中に古い諸々の恥辱が再来しますなぜなら、モーセの律法を疎かにすることよりも、「神の子を踏みにじり、契約の血を汚れたものと見なすこと」の方がはるかに大きな罪に属するからです[7]。実際、福音の後で姦淫を犯す人は、律法の下に置かれた人が姦淫を犯す場合よりも、遥かに大きな恥辱を受けます。なぜならその人は、「キリストの諸々の肢体を取って、それらを娼婦の諸々の肢体にする[8]」からです。ですからあなたは、どれほど重く嵩高い諸々の恥辱が――もしもあなたが(それらを)疎かにしたら――あなたの中に再来するかがお分かりでしょう。とにかく、あなたを姦通の犯人として非難する人は誰もいません。むしろ彼は、冒瀆の非行で(あなたを)断罪します。なぜなら、あなたに次のことが言われているからです:「それともあなたは、あなた方の諸々の身体が神の神殿であることを知らないのですか[9]」;「しかし、もしも人が神の神殿を侵害したなら、神を彼を滅ぼします[10]」と。

たとえあなたが、それらの事柄を以前は知らなかったとしても、今やもう、あなたの諸々の耳の中でそれらの言葉が言われ、あなたの心の中にそのような教えが渡されるのですから、あなたは、それら(の言葉)を聞くことによって、あなた自身が既に「神の神殿と神の肢体」にされていることを知るべきです。あなたは、粗末な地的な人間からどれだけ前進したかご覧下さい:すなわちあなたは、疑いもなく、神が住んでいるに違いない神の神殿の中に前進しました;肉と血であったあなたは、「キリストの肢体」になるために前進しました。

しかし、その前進は偉大であるのと同じように、逸脱はおぞましく、転落は癒しがたいです。実際、もしも聖性の中にいなければ、神の神殿を使うことはあなたに許されませんし、キリストの諸々の肢体を不相応な生業に呼び戻すことも許されません。したがって、もしもあるとき、何らかの悪い欲望の魅惑があなたを殴打するなら、あなたは、いま聞いている諸々の事柄を思い起こし、あなた自身から前進する敵、すなわち「あなたの心から[11]」前進する敵に立ち向かい、次のような諸々の言葉の中で彼に逆らいなさい。すなわち、あなたは次のように言いなさい:「私は、私のものではありません。私は、キリストの血の代価によって購われました[12]。そして私は、彼の肢体になりました。キリストの諸々の肢体を取って、それらを娼婦の諸々の肢体にすることは私に許されません[13]」と。あなたは彼に言いなさい:「私は、神の神殿になりました。何か不潔なものをそこに導入することは私には許されませんし、神の神殿を侵害する権利も私にありません[14]」と。しかしあなたは、さらに次のことも付け加えるべきです:「姦淫を犯す人は、自分の身体の中に罪を犯します[15]」と。なぜなら、その身体は、「神の神殿」になった身体であるばかりでなく、「一切の教会はキリストの身体である[16]」とも言われているところの身体だからです。そして、自分の身体を汚した人は一切の教会の中に罪を働いているように見えます。なぜなら、一つの肢体を通して、汚れは一切の身体の中に注ぎ出されるからです。

さらに、次のこともエジプトの恥辱です:すなわちそれは――もしもあなたが疎かにしたなら、ヨルダン川の過越の後でも、そして、洗礼という第二の割礼の後でも、古い習慣の火傷によって呼び起こされるもので――諸々の占いを行うこと、諸々の星の進路を探求し、それらから諸々の未来の事柄の諸々の出現を探ること、諸々の前兆を守ること、そしてその他の諸々の迷信に巻き込まれること、です。実際、偶像崇拝の母はエジプトです。そこから、その種の諸々の恥辱が芽生えるのは確実です。もしもあなたがヨルダン川を過ぎ越しても、それらを受け入れ、それらの諸々の罠によってあなた自身を再び縛ったなら、あなたは疑いもなくエジプトの諸々の恥辱をあなたとともに引きずります。しかし、もしもあるとき、そのような好奇があなたを煩わせ、あなたの心のからその種の敵が噴出するなら、彼に次のように言いなさい:「私は指導者イエスに従います。なぜなら、未来の諸々の事柄は彼の権能の内にあるからです。未来の諸々の事柄がどの媼者であるかを、どうして私は知る必要がありますか。彼が望む諸々の事柄が未来の諸々の事柄だというのに」と。

ですから、私たちの中で、本当に第二の割礼――私たちは、それによってエジプトの古い諸々の恥辱を取り除きます――が成就さえるようになるために、私たちは、それらのすべてからすっかり切り離されているべきです。そうすることによって私たちは、身体と心において清められ、「さらに純粋な諸々の手[17]」を神に挙げることができるようになるでしょう。また私たちは、純粋な口と清められた諸々の唇と誠実な精神とによって、祈りと諸々の行動によって、私たちの主なるキリスト・イエスの内に、神に栄光を帰すことができるでしょう。彼に、「権能と支配が代々にありますように。アーメン[18]」。



[1] Jos.5,9.

[2] Ph.3.6.

[3] Tt.3,3.

[4] Tt.3,5.

[5] Jos.5,9.

[6] Jn.5,14.

[7] Cf.He.10,29.

[8] 1Co.6,15.

[9] 1Co.6,19.

[10] 1Co.3,17.

[11] Cf.Mt.15,19.

[12] Cf.1Co.6,20; 1P.1,19.

[13] Cf.1Co.6,15.

[14] Cf.1Co.3,17.

[15] 1Co.6,18.

[16] Col.1,24.

[17] 1Tm.2,8.

[18] Cf.1P.4,11 et Ap.5,13.