第六講話

イスラエルの子らがギルガルの中で行ったパスカについて。そして、どのようにして彼らは、諸々の棕櫚の地域から地の諸々の実りを取ったかについて。そして、主の軍隊の諸々の力の君について。そして、エリコについて。

 主の諸々の命令に不従順だった人たちは、無割礼者たちと言われます[1]。そのことから、神の諸々の命令に従わない人たちが無割礼者たちと呼ばれることが理解されます[2]。しかし、神は一切の魂を愛していますから、割礼者たちも無割礼者たちも完全に放置することはしません。たしかに彼は、イエス――彼は、相応しい人たちにも相応しくない人たちにも等しく割礼をほどこします――を派遣しました。しかし彼は、ヌンの子イエスを派遣せず――なぜなら彼は、真実で完全な割礼によって民に割礼を施さなかったからです――、私たちの主にして救い主なるイエスを派遣しました。実際、この方こそ、真実に私たちから肉の汚れを切断し、私たちの心と魂から諸々の罪の諸々の汚染を浄化しました。

とにかくあなたは、ヌンの子を通して予め形象化された諸々の事柄の中で()文書が何を言っているかを、お聞きください。(聖文書は)言います:「イスラエルの子らは、割礼を施されると、癒されるまで、諸々の宿営の中で同じ場所の中に座って休憩した。そしてそのとき、主はイエスに言った:「今日、私は、エジプトの恥辱をあなた方から取り去った[3]」と。実に、割礼を施されるだけでは私たちに十分ではありません。割礼の後でも癒されること、すなわち、割礼の傷が癒着をもたらすまで癒されることが必要です。では、いつ私たちの割礼の傷の中で癒着がもたらされるのでしょうか。私は、次のように考えています:私たちのイエスを通して割礼を施されることは、諸々の悪徳を欠落させること、諸々の悪い習慣と諸々の最悪の制度を捨てること、不快で乱れた諸々の品行や、誠実さと敬虔との諸々の規則から逸脱するあらゆる事柄を切断することです。

しかし、私たちが諸々の始めの中でそのことを行うとき、私たちは、或る仕方で刷新の困難そのものに縛られます。そそして、魂の或る労苦と痛みにおいて、古い習慣の諸々の過失を新しい制度によって変えます。そして、したがって、私が言ったように、諸々の始めの中に或る困難が存在します。そして、困難と痛みとを伴って、私たちは最初の諸々の事柄を切り詰め、第二の諸々の事柄を受け取ることができます。それは、次のような時間であると私には見えます:すなわち、癒着がもたらされることによって私たちが癒されるまで、私たちがいわば私たちの割礼の痛みの中に踏み留まると言われている時間です。しかし、諸々の新しい制度を困難なしに私たちが成就し、以前には不慣れなものとして困難に見えた事柄が私たちによって習慣が変えられるとき、私たちは癒着を得ます。そして私たちは、諸々の悪徳を欠落させ、新しい習慣的使用によって徳を本性に変えるとき、本当に癒やされたと言われます。

そして、そのようにして、神的なみ言葉は、次に続く諸々の事柄を私たちにまさに正当に言います:「今日、私は、エジプトの恥辱をあなた方から取り去った[4]」と。なぜなら、エジプトの恥辱が取り去られた後で、「そして、イスラエルの子らは、(その)月の十四日にパスカを行った[5]」と言われるからです。実際、彼らは、割礼の前は、パスカを行うことができませんでしたし、割礼の後でもすぐに、子羊の諸々諸の肉を食べることもできませんでした――彼らが癒やされるまでは。しかし、彼らが癒やされた後、「イスラエルの子らは、(その)月の十四日にパスカを行った[6]」と言われています。ですからあなたは次のことを見ます:すなわち、汚れている人は誰一人としてパスカを行わず、無割礼の人は誰一人として(パスカを行わず)、むしろ、割礼を施された清い人なら誰でも(パスカを行う)と。それは、使徒も解釈して言っているとおりです:「実に、私たちのパスカ、キリストは屠られました。こうして、(パスカの)祭日を私たちは祝いましょう――古い酵母の中でなく、悪意と邪悪との酵母の中でなく、誠実さと真理との酵母の中で[7]」と。

そればかりでなく、民がエジプトの地から脱出したとき、民は「自分たちの諸々の衣服の中に練り粉を携えました[8]」。しかし、練り粉が欠乏し、彼らが諸々のパンを持たなくなると、神は彼らのためにマナを降らせました。しかし、彼らが聖なる地に着て、「諸々の棕櫚の地方の諸々の実りを取ると、マナが彼らにとって欠乏しました[9]」。そしてそのとき、彼らは地の諸々の実りから食べることを始めました。

こうして、諸々の食物の三つの種類が描かれています。一つ(の食物)は、私たちがエジプトから脱出するとき食べるものですが、少しの時間だけ役立ちます。しかしその後、マナが続きます。第三(の食物)を、私たちは聖なる地から実りとして受け取ります。それらの諸々の違いの中で――私の小ささの理解が及ぶ限りで――次のことが示されていると、私は思います:すなわち最初の食物は、私たちがエジプトから脱出するとき私たちと共に携えたもので、私たちに僅かに役立つことのできる小さな学校教育――あるいは、場合によっては人が到達し得る自由な諸々の文芸(の教育)――です。他方、荒れ野の中に、すなわち、私たちが今いる生活の状態の中に置かれてたとき、私たちは神的な律法の諸々の教示によって教育されることを通して、マナを食べます。しかし、約束の地に入ること、すなわち、救い主によって約束された諸々の事柄を獲得することに相応しくなった人は、諸々の棕櫚の地域からの諸々の実りを食べるでしょう。実際、敵を打ち負かすことによって約束された諸々の事柄に到達した人は、本当に棕櫚の実りを見出すでしょう。実際、次のことは確実です:私たちが今、神の律法や諸々の神的な文字の中で理解できる、あるいは考えることができる諸々の事柄がどれほど偉大でも、「謎が止み、顔と顔を合わせて」、任意の聖なる人たちが見るのに相応しいとされた諸々の事柄は[10]、はるかに崇高で卓越しています。なぜなら、「目が見ず、耳が聞かず、人間の心の中に昇らなかった諸々の事柄を、神は、ご自分を愛する人たちに準備した[11]」からです。

そして、文字にのみ従って律法が理解されねばならないとすれば、疑いもなく次のことが見出されます:すなわち、イスラエルの子らは約束によって、天からマナを受け取りましたので、より優れた諸々のものを享受している――なぜなら、以前、エジプト的な諸々の食物が欠乏したとき、天からマナというより優れた食物がそれら(のより劣った諸々のものに)に取って代わったからです――にもかかわらず、より劣った諸々のものを受け取ったことが見出されます。そして、今、より優れた食物が途絶えて、より劣ったものが食物がそれに変わったことは、どのようにして考えられるでしょうか――より偉大でより真実な理拠が、文字の本文の中でなく、霊的理解の中で把握されないとすれば。

しかしながら、イエスがご自分の民を聖なる地の中に導き入れた後、彼は、清められたすべての人たちのためにパスカを挙行します。



[1] Cf.Rm.2,25.

[2] 霊的割礼については、創世記講話III.6を参照せよ。

[3] Jos.5,8-9.

[4] Jos.5,8-9.

[5] Jos.5,10.

[6] Jos.5,10.

[7] 1Co.5,7-8.

[8] Ex.12,34.

[9] Jos.15,12.

[10] Cf.1Co.13,12.

[11] 1Co.2,9.