しかしながら、歴史が述べることは、さらに私を動かします。なぜなら、エリコの諸々の壁が倒れるように、祭司たちが諸々の角笛で歌ったばかりでなく、角笛の声を聞くことによって、民の全体が大きな遠吠えによって吠えたと言われています。あるいは、他の諸々の写本の中に保たれているように、大きな喜びで喜んだと言われています。そして、その言葉が不適切に翻訳されているように見えても――実際、それはギリシア語で「アララグモス」と書かれていますが、それは、適切には喜びも遠吠えも意味しません。それはむしろ、戦いの時に軍隊が調和する叫びを一斉に上げて、戦闘のためにみずからを鼓舞するときによく発する大きな声を示しています[1]――、そこ言葉は、諸々の()文書の中では、「遠吠え」よりも「喜び」として記載されるのが通例になっています。たとえば、「一切の地よ、あなた方は主に向かって喜びなさい[2]」。また、「喜びを知っている民は幸い[3]」とあります。

この(喜びという)言葉は、さらに私を揺り動かします。その言葉は、民を幸いにするとは、何と大きな働きを持っていることでしょうか。それは、正義を働く民は幸いであるとか、諸々の神秘を知っている民は幸いとか、天と地と諸天体の理挙をしている民は幸いと言いませんでした。それは、「喜びをしている民は幸い[4]」と言っています。他の諸々の箇所の中では、神の恐れが(人を)幸いにしますが、一人の人間だけを幸いにします。実際、(聖文書は)次のように言っています:「主を畏れる男は幸いである[5]」。他の箇所では、もっと多くの人たちが幸いになります――たとえば、霊において貧しい人たちや柔和な人たちや平和をもたらす人たちや心において清い人たち[6]。しかしここでは、幸いが注ぎ出されました。しかも、その幸いの大きさは――(そこに)示されている幸いの原因がどのようなものか私は知りませんが――民全体を等しく幸いにするほどのものです。ただし、その民は喜びを知っていなければなりません。

それゆえ、その喜びは、一致した心と一致した魂の或る感情を示しているように私には見えます。それがもしもキリストの二人のあるいは三人の弟子たちの中に起こるなら、彼らが救い主の名の中で求めたすべての事柄はを、天的な父は彼らに与えます。しかし、もしも幸いがかくも大きく、すべての民が心を一つにし、魂を一つにしたまま留まり、「すべての人たちは、同じ理解の中に、同じ考えの中に留まりつつ、諸もの同じ事柄を言う[7]」ほどのものであるなら、そのような民が魂を一つにして声を上げるとき、『使徒たちの諸々の言行』の中に書き記されていることが起こるでしょう:すなわち、「使徒あっちが、婦人たちとイエスの母マリアととともに心を一つにして祈っていた[8]」とき、土地の大きな振動が起こされたと。そして、土地の動きが起こされることによって、地的な諸々のすべてのものは破壊され、倒れるでしょう。そして、世界そのものが転覆させられるでしょう。とにかくあなたは、自分の兵士たちをそのことのために励ます主にして私たちの救い主が、どのように行っているかお聞きください:「あなたは信頼しなさい。私は世を打ち負かした[9]」と。ですから、その指導者によって、既に私たちのために、世は打ち負かされました。そして、世俗的な人たちが頼っていたその諸々の壁は倒れました。

そればかりか、私たちの一人ひとりは、自分自身の中でそれらの事柄を成し遂げなければなりません。あなたは、あなたの中に、信仰によって指導者としてのイエスを持っています。もしもあなたが祭司なら、どうか「諸々の導きの角笛」を作ってください。それどころか、あなたは祭司なのですから――実際あなたは、「王的な民[10]」になりました。そして、あなたについて「聖なる祭司職[11]」が言われています――、あなたは、諸々の聖なる文書から「諸々の導きの角笛」を作ってください。あなたは、そこから諸々の理解を、そこから諸々の教話を引き出してください。それゆえ、それらは「諸々の導きの角笛」と呼ばれます。あなたはそれらの中で歌うべきです。すなわち、「諸々の詩編の中で、諸々の讃歌の中で、諸々の霊的な歌の中で[12]」歌うべきです。諸々の預言的な秘蹟の中で、律法の諸々の神秘の中で、諸々の使徒的な教義の中で、あなたは歌うべきです。

そして、もしもあなたが、それらの角笛の中で歌い、七回、契約の箱を持って回ったなら[13]、すなわち、もしもあなたが律法の神秘的な諸々の定めを福音的な諸々の角笛から分離しないなら、さらにもしもあなたが、喜びの交響曲をあなた自身から出すなら、すなわち、もしもあなたの中にいる諸々の思考と諸々の理解の民が常に心を合わせて協和する声を出すなら――そして、ある時はあなたは真理を言い、ある時は有力者にへつらってあなた自身を汚すということがないなら――もしもある時は、気の緩みがあなたをへつらい者にし、ある時は怒りが(あなたを)凶暴にするということがないなら、もしもあなたが、凡庸な人たちに対して尊大で、目上の人たちの許で謙虚であるのが見出されないなら、最後に、もしも戦闘――「肉が霊に反対して欲求し、霊が肉に反対して欲求する[14]」戦闘――があなたの内側で行われないなら、もしもそれらの事柄があなたの内側で協和し心を合わせるなら、あなたは喜びの声を上げてください。なぜなら、世界はあなたにとって破壊され、投げ捨てられたからです。次のように自信を持っていた人は、実にそのような人であったと私は思っています:すなわち、「しかし、私たちの主イエス・キリストの十字架の中でなければ、誇ることが私にはないように。彼を通して、私にとって世界は十字架に付けられ、私は世界にとって十字架に付けられました[15]」。



[1] 明らかにルフィヌスの補足的挿入である。

[2] Ps.99,1.

[3] Ps.88,16.

[4] Ps.88,16.

[5] Ps.111,1.

[6] Cf.Mt.5,3s.

[7] 1Co.1,10.

[8] Ac.1,13.

[9] Jn.16,33.

[10] 1P.2,9.

[11] 1P.2,9.

[12] Col.3,16.

[13] Cf.Jos.6.15.

[14] Ga.5,17.

[15] Ga.6,14.