さらに、(この)箇所の中であることが私を動揺させます:私は、喜びについて少しのことしか理解しておらず、諸々の偉大な事柄について諸々の卑小な事柄を言った(のではないかと)と、私には思われます。

イエスの到来の中で、エリコの諸々の壁は倒壊させられました。私の主イエスの到来の中で、世界は打ち負かされました。しかし、どのようにして世界は打ち負かされるのかについて、言われている諸々の事柄を、私はもっと明白に、もっと明晰に理解したいです。ですから、あなた方に教える私自身が、あなた方と同じく学びたいと思っています。私たちは、パウロを私たちに共通の教師として扱いましょう。なぜなら彼自身がキリストの神秘に参与する人だからです。彼は、どのようにしてキリストが世界に打ち勝ったかを私たちに教えることができます。では、彼が次のように言うのを、あなたは聞いて下さい:「私たちに敵対していたものを、ご自分の十字架に付けて、公から取り去りました。そして彼は、諸々の支配と諸々の権能を奪い取り、自由にさらしました――十字架の木の中でそれらに勝利することによって[1]」と。ですから、それらの言葉から、私は次のことを理解します:イエスの一撃によって、諸々の天的な力と諸々の支配と敵対する諸々の権能とから、それらの諸々の権能が奪い取られ、「強い者が縛られ、彼の諸々の器が略奪される」のを見て、彼らは、自分たちの諸々の天的な角笛によって喝采しました。なぜなら、この世界の支配が縛らて、世界が打ち負かされ、諸々の天的な軍勢がキリストの勝利の中で喜びの声を挙げたからです。ですから、諸国民に属する民――天的な軍勢のこのような喜びを知り、諸々の神秘を覚知する民――は本当に幸せです。



[1] Col.2,14.