しかし私たちは、いま、続く諸々の事柄を、さらに見てみましょう。エリコが転覆させられたとき、遊女ラハブだけが救われます。実際そのように()文書は彼女について行っています:「そして、遊女ラハブと彼女の父の一切の家を,イエスは生かした。そして彼女は、今日に至るまでイスラエルに付け加えられている[1]」と。

私は、ユダヤ人たちから、そして、キリスト者たちと言われているけれども、諸々の()文書の中で未だにユダヤ的な意味を保持している人たちから、次のことをどのように説明するか尋ねたい:すなわち、「遊女ラハブが、今日に至るまでイスラエルの家に付け加えられている」ことを。どのようにしてラハブは、「今日に至るまで付け加えられている」と言われるのでしょうか。命や代の終わりに至るまで存続する諸々の事柄についてそのことを言うことは、聖なる文書の習慣です:たとえば (聖なる文書は)、「彼は、今日に至るまでモアブ人たちの父である[2]」と言っています。それは、「代の終わりまで」を意味します。また、福音の中でも言われています:「その話は、ユダヤ人たちの許で今日に至るまで」、すなわち、代が存立する限り、「広まっている[3]」と。

しかし婦人ラハブは、どのようにして今日に至るまでイスラエルの家に付け加えられていると言われるのでしょうか。彼女が子どもたちの回復の中で保持されているように見られるために、子孫の継続が母に帰されているのでしょうか。それとも、むしろ次のことが理解されるべきでしょうか:すなわち彼女は、真のイスラエルに今日に至るまで付け加えられ、結び付けられているのでしょうか。そして、もしもあなたが、どのようにしてラハブがイスラエルに結ばれるかをもっと明瞭に見ることを望むなら、どのようにして「野生のオリーブの枝が善きオリーブの根の中に植えられる[4]」かを見つめてください。そうすればあなたは、どのようにしてアブラハムとイサクとヤコブの信仰に植えられた人たちが、「今日に至るまでイスラエルの脇に置かれ付け加えられている」と正当に言われるかを理解するでしょう。なぜなら、諸国民の中から取られ、彼らの根の中で植えられた私たち、かつて真の神の代わりに木と石を拝むことによって遊女になっていた私たちは[5]、今日に至るまで(イスラエルの)脇に置かれているからであり、また、申命記の預言によれば、キリストの信仰の故に私たちは、「上方」の民にされ、不信仰のままであった前出の民は「下方」の民になったからです[6]。ですからもしも人が、すべてのものの頭であるキリストを自らの内に持つなら、その人は、「頭の中に」います。実際、「最初の人たち」であったにもかかわらず、キリスト・イエスを否定して、尻尾になった人たちは、「最後の人たち」にされます[7]



[1] Jos.6,25.

[2] Gn.19,37.

[3] Mt.28,15.

[4] Rm.11,17.

[5] Cf.Dt.4,28.

[6] Cf.Dt.28,13.

[7] Cf.Mt.19,30.