そればかりか、一人が罪を犯すと、怒りが一切の民の上に来るというこも、無為に走り越されるべきではありません。

そのことはどのようにして、起こるのでしょうか。民を司会する祭司たちが、悪いことをする人たちに対して寛大であると見られたいと望むとき、そして、罪を犯す人たちついて悪く語るのではないかと思って、彼らの諸々の舌を心配し、次のように書かれていることを実行することを望まないときに(それは起こります)。こう書かれています:「罪を犯す人を、あなたはすべての人たちの前で叱りなさい。それは、他の人たちが恐れを持つためです[1]」。また、「あなた方は、あなた方自身から悪を取り除きなさい[2]」と。また、その祭司たちは、神の熱意に燃え立たさて、次のように言う使徒を模倣しません:「そのような人間は、肉の滅びのためにサタンに渡され、霊が救われるようにしなさい[3]」と。さらに彼らは、次の福音的な事柄を実行することに熱心ではありません:すなわちそれは、もしも彼らが、罪を犯す人を見たなら、先ず密かに(その人に)会うべきこと、その後さらに「二人ないしは三人の立会人」とともに(会うこと)、しかしもしもその人が軽蔑し、教会の矯正の後も改善されなかったなら、その人を「異邦人と徴税人」であるかのように、教会から追放された者として扱うべきこと[4]、です。

そして彼ら(祭司たち)が、一人(の罪人)を容赦する限り、彼らは、全教会に滅びをもたらします。一人(の罪人)を容赦し、すべての人々を危険に導く慈しみは何でしょうか、憐れみは何でしょうか。実際、一人の罪人とから、民は汚染されます。一匹の病気の牡羊から群れの全体が感染されるように、一人の罪人――姦淫する人であれ、他のどんな罪を犯す人でも――から、人々の全体が汚染されます。

そして、ですから、私たちは互いに監視し合いましょう。そして各自の暮らしが知られるようにしましょう――特に祭司たいと奉仕者たちに。また、彼らは自分らが正しく言っていると思うべきでありません:「もしも他の人が悪く行動しても、そのことが私にどんな関係があるのか」と。それは、頭が諸々の足に言うようなものです[5]:「それら(の足)が痛んでも、私の何の関わりがあるのか;頭が健康の中に持続するかぎり、(そんなことは)私に関係ない」と。あるいは、目が手に言うようなものです:「私は、あなたの諸々の業を必要としない。あなたが痛んでも、数多が傷ついても、私に何の関わりがあるのか。そもそも、私、目は、手の病から悩まされるだろうか」と。

ですから、以上のようなことを、諸々の教会を指導している人たち――信じる私たち全員が、一人の神、すなわち私たちを一致の中で結び合わせ包み込む神キリストを持ち、一つの身体になっていることを考えていない彼ら――は行います。教会を指導するあなたは、キリストの身体の目です。それ故あなたは、すべての事柄を見回し、すべての事柄を査察し、未来の諸々の事柄さえ予見しなければなりません。あなたは牧者です。あなたは、主の子羊たちが危険を知らずに諸々の断崖に連れて行かれ、諸々の先端に沿って並んでいるのを見ます。あなたは駆け寄らないのですか。あなたは呼び戻さないのですか。ともかくあなたは、声によって制止し、矯正の叫びによって回避させませんか。あなたは主の秘蹟を忘れてしまったのですか。その結果、彼が、迷い出た一匹の子羊のために、九十九匹を諸々の天の中に残して[6]、諸々の土地の許に降りてきて見出し、それを自分の諸々の肩によって天に運び戻したにもかかわらず[7]、私たちは、子羊たちの配慮することにおいて、牧者の師匠の模範にまったく従わないのですか。

ですから、私たちはそれらのことを言うのは、軽微な過失の故に人が切り離されるためではありません。むしろ、もしも誰かが忠告を受け、過失の故、一度、二度、三度と矯正されても、まったく改善を示さなかったなら、私たちは、医者の規律を使います。もしも私たちが油を塗っても、もしも私たちが諸々の軟膏によって和らげても、もしも私たちが軟膏によって柔らかくしても、腫瘍の酷さが諸々施薬に譲歩しないなら、切除する治療しか残っていません。同じように、実に主も次のように言っています:「もしもあなたの右手があなたを躓かせたなら、あなたはそれを切断し、あなたから切り離して捨てなさい[8]」と。そもそも、私たちの身体の手が私たちを躓かせたり、福音が身体のこの手について、「あなたはそれを切断し、あなたから切り離して捨てなさい」と言いますか。それが言っていることは次のことです:すなわち、あなたの右手であるように見える私、司祭と呼ばれる私、神のみ言葉を宣べ伝える私が、もしも教会的規律と福音の規則に反して何かを行って、教会であるあなたに対して躓きを作ったなら、全教会は一つの心で思い図り、みずからの右手である私を切り離し、自分の許から捨てて下さい。実際、教会であるあなたにとって有益なことです――あなたの手である私、悪く行動して躓きを作った私を除いて諸々の天の国の中に入る方が、私とともに「地獄の中に行く」よりも[9]

私たちが以上の諸々の事柄を言いましたのは、私たちが神聖なる諸々の文書の中で、罪を犯す一人の故にイスラエルの子らに呪いが作られ、彼らが敵たちによって打ち負かされるほどになったと述べられているのを[10]、私たちは見るからです。



[1] 1Tm.5,20.

[2] 1Co.5,13.

[3] 1Co.5,5.

[4] Cf.Mt.18,15-17.

[5] Cf.1Co.12,15s.

[6] Cf.Mt.18,12.

[7] 魂の先在が前提にされている。

[8] Mt.5,30.

[9] Cf.Mt.5,30.

[10] Jos.7,12.