しかし、彼の罪そのものがどのようなものかも、私たちは見てみましょう。彼は、「金的な舌」を盗み、そして、それを自分の天幕の中に置いたと、(聖文書は)言っています[1]

私は、少量の金のその窃盗の中に、主の無数の教会を汚すほどの大きな罪の力があったとは考えません。しかし、私たちは、罪のかくも大きな、そしてかくも重い酷さが内的な理解に属していないかどうかを見てみましょう。哲学者たちや修辞学者たちの諸々の言葉の中に、多大な魅力と多くの美しさがあります。彼らは皆、エリコすなわちこの世界の町に属する人間たちです。ですから、もしもあなたが哲学者たちの許に、輝かしい言葉からなる諸々の主張によって飾られた諸々の邪な教説を見出すなら、それら(の教説)が「諸々の金的な舌」です。しかしあなたは、作品の輝きがあなたを欺かないように注意しましょう。金的な言葉の美しさがあなたを魅惑しないように注意しましょう。エリコの中に見出された一切の金が呪われるようにイエスが命じたことを、あなたは思い起こしましょう。もしもあなたが、詩人が旋律のある諸々の句と輝かしい歌によって神々と女神たちを作詞するのを読んだなら、あなたは、雄弁の甘美さによって魅了されてはなりません。なぜなら(その)舌は、金だからです。もしもあなたがそれを拾い上げ、あなたの幕屋の中に置いたなら、もしもあなたが彼らによって主張されている諸々の事柄をあなたの心中に導入したなら、あなたは主の一切の教会を汚すでしょう。不幸なヴァレンティノスとバシリデスはそのことを行いました。マルキオンも、そのことを行いました。彼らは、エリコから諸々の金的な舌を盗みました。そして私たちに対して、哲学者たちの正しくない諸々の学派を諸々の教会の中に導入し、主の一切の教会を汚そうと努めました。

しかし私たちは、率先して教父たちの模範に従いましょう。私たちは、人が自分の幕屋の中にエリコの舌を隠し持たないように十分に警戒しましょう。私たちは私たち自身の中から悪を捨て去りましょう。なぜなら、たとえ私たちが(隠し持つことを)止めていたとしても、神は非難して、その人がみずから進んで告白し、「私は金的な舌と諸々の純粋な腕輪を盗みました」と言わなければなりません[2]。あなたは、どのような窃盗が行われたか、ご覧になりますか。彼は舌と諸々の純粋な腕輪を盗みます。ところで、諸々の純粋な腕輪は、神的なものが何一つ混入されていない諸々の業です。それらの業の中では、一切が人間に即して行われます。もちろん私たちの諸々の議論の中では、次のように言うことになっています:すなわち、キリストは純粋の人間ではないと私たちは言うべきで、(彼は)神にして人間であると告白すると。ところが、彼がエリコから盗むものは純粋である、すなわち神がないと言われます。とにかくそのことが、盗む人にとって罪の原因になりました。

そしてしたがって、私たちはキリストについて、純粋で人間的なことを何一つ考えないようにしましょう。むしろ私たちは、(彼が)神であると同時に人間であると言明しましょう。なぜなら神の知恵は多様であると言われているからです[3]。それは、私たちがそれらを通して、私たちの主キリスト・イエスである神の知恵の参与を得るに相応しくなるためです。彼に「栄光と力が代々にありますように。アーメン[4]」。



[1] Jos.7,21.なお、「金の舌」(もちろん直訳)は、「金の延べ棒」である。

[2] Cf.Jos.7,20-21.

[3] Cf.Sg.7,22.

[4] 1P.4,11.