それらの事柄が聞かれると、聴衆者の方々は当然、次のように言うでしょう:それは、私にとって何になるのか。私に何をもたらすのか――諸々の似た戦争やあるいはもっと大きな諸々の戦争が行われたり行われることが(それ以上)ないかのように、アイに住んでいた人たちが打ち負かされたのを私が知るとしても。次のことは、聖霊の配慮によることだったのでしょうか――非常に多くの高貴な都市の諸々の破壊が放置されて、アイの町の戦闘が神聖な諸々の巻物に書き記されるように命じられるとは。

神聖な文書のこれほど険しくこれほど困難な諸々の個所を説明しようと努力して、私たちが行うことは、無謀なことかもしれません。しかし、もしもあなた方があなた方の諸々の祈りによって私たちを助けて下さるなら、私たちは大胆さの過失を避けることができるでしょう。そればかりか、み言葉の父なる神が私たちの信心を嘉して、「私たちの口を開いてみ言葉を与えてくれるでしょう[1]」――それによってあなた方も建徳されるでしょうし、私たちも不信心に見られないでしょう。ですから、あなた方は祈りつつ、諸々の魂において張り詰めて、聞いて下さい。

最初、私たちは諸々の罪の故に打ち負かされました。そして、アイに住んでいた人たちが私たちの中からできるだけ多くを殺害しました。アイは混沌と解釈されます。しかるに混沌は、敵対的な諸力の場所あるいは住居であることを私たちは知っています。それらの力の王にして君主が悪魔です。彼に対してイエスが来て、二つの部分に民を分け、一方の人たちを最初の諸々の(場所の)中に立て、他方の人たちを後方の諸々の(場所の)中に立てました。そして後者の人たちが、予期せず、敵たちの諸々の背の後ろに来ます[2]。そして、あなたは、民の最初の部分が、次のように言われている部分ではないかどうかをお考え下さい:すなわち、その部分について(聖文書は)、「私は、イスラエルの家の失われた羊の許にしか来なかった[3]」と言っています。そしてその部分について使徒は言っています:「しかし、善を働く一切の人に恵みと平和、最初にユダヤ人に、次にギリシア人にも[4]」、すなわち、後方の諸国民に。ですから前出の民は、最初の諸々の(場所の)中に立てられ、いわばイエスとともに退却した民です[5]。それに対して後方の民は、諸国民から集められる民であり、不意に来て――実際、諸国民が救われると、誰が予期するでしょうか――敵たちを(その)背の後ろで激しく打ちます。そしてそのようにして両者の民は、包囲された悪霊の軍団を打ち倒し、打ち負かします。

しかし、おそらくあなたは私に言うでしょう:それなら、どのようにして前者の民は退却するものとして置かれるのか、と。そしてそれは、しごく当然なことです。実際、イエスに従う人たちは、退却するように見えました――律法的な諸々の重荷と諸々の定めから、安息日の遵守から肉の割礼から、諸々の生け贄の屠殺から。しかし、キリストに従った人は退却しません――律法の完成と成就から。



[1] Cf.Ep.6,19.

[2] Cf.Jos.8,5-6.

[3] Mt.15,24.

[4] Rm.2,10.

[5] Cf.Jos.8,15.