しかし、すべての事柄の後で、さらに「アイの王は二重の木の中で吊された[1]」と言われています。この個所の中には神秘が隠されていて、ほとんどの人に気づかれていません。しかし、あなた方が祈って下さるので、私たちは私たちの諸々の意見によってではなく、神的文書の諸々の証言によってそれらの事柄を開示することを試みましょう。

上の諸々個所の中で、私たちは、アイの王は悪魔になぞらえられると言いました。彼がどのようにして二重の木の中で磔にされたのか知るのは努力に値します。私たちの主イエス・キリストの十字架も二重(の木)でした。おそらくこの言葉は、あなたにとっては驚きでしょう。そして、私が言うことは新奇に見えるでしょう。「十字架が二重だった」ということは、一対の二重の理拠によって成り立っています。なぜなら、可視的に神の子は肉の中で磔にされたとともに、他方で不可視的にその十字架の中で悪霊が「彼の諸々の主権と諸々の権能とともに十字架に釘付けにされた[2]」からです。あなたには、そのことが真実に見えないでしょうか――私があなたに、それらの事柄の証言者として使徒パウロを引用したとしても。そうであれば、それらに事柄について彼自身が何を表明しているかを、あなたはお聞き下さい:「私たちに敵対していたものを真ん中から運び去り、ご自分の十字架に釘付けし、諸々の主権と諸々の権能を奪い去り、公然と引き回し、十字架の木の中でそれらに勝利しました[3]」と。ただし、他の諸々の写本の中では、「ご自身の中でそれらに勝利しました」となっており、ギリシア人たちの許では「木の中で」となっています。

ですから、主的な十字架の理拠は二重です:すなわち、一つ(の理拠)において使徒ペトロは、「十字架に付けられたキリストは私たちに模範を残した[4]」と言っています。第二の理拠はこれです:すなわちあの十字架は、悪魔からの戦利品でした――その戦利品の中で、(悪魔は)十字架に付けられ、打ち負かされました。実に、使徒パウロも次のように言っていました:「しかし、私にとって、私の主イエス・キリストの十字架――その方を通して世は私にとって十字架に付けられ、私は世に対して(十字架に付けられました)――以外に誇るものがあってはなりません[5]」と。あなたは、ここでも使徒が十字架の二重の理拠を提示したのを見るでしょう。すなわち彼は、相互に対立する二つのものが十字架に付けられたと言っています。それは聖なる彼自身と罪人としての世です。疑いもなくその形姿は、上で渡したいが言いましたように、キリストと悪魔です。「実際、私たちは、世に対して十字架に釘付けにされます――この世の君が私たちの中に来て何も見出さなかったとき[6]。そして、私に対して世は十字架に釘付けにされます――私たちが罪の諸々の欲望を受け入れないとき」。



[1] Jos.8,29.

[2] Col.2,14.

[3] Col.2,14.

[4] 1P.2,21.

[5] Ga.6,14.

[6] Cf.Jn.14,30.