しかし、もしもあなたが、聞かれた諸々の事柄に注意深いなら、次のように言うことができます:確かに行われた諸於呂お事柄の形姿は適切に見えます。しかし、未だに次のことが私を動かします:すなわち、悪魔と彼の軍勢は、歴史の形象に即して明示される限り、滅ぼされました。しかし、悪魔も諸々の権能も、神の僕たちに対して未だに甚だしく勢力を持っていることを、どのように私たちは見るべきかと。その程度たるや、使徒ペトロも、大きな注意をもって警告し、警戒すべきだと言っているほどです。なぜなら、「私たちの敵は、吠える獅子のように歩き回り、貪り食う相手を探して居るからです[1]」と。ですから私たちは、ここでも、聖霊の諸々の言葉に相応しい何かを見出すことができるかどうか考えてみましょう。

キリストの一つの到来は、謙虚さの中で成し遂げられました。しかし、もう一つ(の到来)は栄光の中で期待されます。そして、肉におけるこの最初の到来は、ある神秘的な言葉によって、諸々の聖文書の中で後者の影と呼ばれています。それは、預言者エレミアも告げて言っているとおりです:「私たちの顔の息、主キリスト。私たちはその方の影の中で、諸国の民の中で生活するだろう[2]」と。そればかりかガブリエルも、その方の誕生に関してマリアに福音を告げるとき、「いと高き方の力があなたに影を作るでしょう[3]」と言っています。それゆえ私たちは、彼のこの最初の到来によってどれほど多くの事柄が影づけられるかを理解します。それらの事柄の実現と完成は第二の到来の中で成し遂げられるでしょう。使徒パウロも次のように言っています:「(神は)私たちを彼とともに復活させ、諸々の天の中に一緒に座らせました[4]」と。そして、ともかく私たちは次のことを見ます:すなわち、信じる人たちはまだ復活させられたわけでもなく、諸々の天の中に一緒に既に座っているのでもなく、それらの事柄はいま信仰を通して影づけられています――なぜなら私たちは、精神と希望によって、地上的で死的な諸々の業から高められており、私たちの心を天的で永遠的な諸々の事柄に高めているからです。しかし、そのことは彼の第二の到来の中で成就されるでしょう――そのとき私たちは、いま信仰と希望の中で予期していた諸々の事柄を、諸事物の成就によって身体的に把握するでしょう。

ですからそのようにして、悪魔についても、次のように理解されねばなりません:すなわち、悪魔は確かに打ち負かされ十字架に付けられました;しかし(悪魔は)、キリスト共に十字架に付けられた人たちにとって、また、信じるすべての人たちやあらゆる民らにとっても十字架に付けられるでしょう――使徒が次のように言うことが成就するとき:「アダムの中ですべての人が死ぬように、キリストの中ですべての人たちが生かされるでしょう[5]」と。ですからこの中に、将来の復活の神秘もあります。実際、そのとき、民は二つの部分に分けられるでしょう。そのとき、ある人たちは最初の人たちとなり、他の人たちは最後の人たちになるでしょう。彼らは、キリストの許で一つに息を合わせたとき、もうのそのときには、もはや悪魔は決して存在しないでしょう。なぜなら「もはや死はないでしょう[6]」から。あなたは、私たちがあなたのために神的な諸々の証言によってそれらの事柄を立証するのを望みますか。使徒が次のように言うのをあなたはお聞き下さい:すなわち、「私たちは次のことをあなた方に主の言葉の中で言います:生きて残っている私たちは、眠っている人たちより、主の到来の中で先行しません。なぜなら、主ご自身が命令の中で、大天使の声の中で、そして上の角笛の中で、天から降りてきて、キリストの中で死んだ者たちが最初に復活し、次に、生きて残っている私たちが彼らと共に諸々の雲の中でさらわれ、空気の中でキリストに会いに向かうからです。こうして私たちは、常に主と共にいるでしょう[7]」と。他方、彼は、悪魔について述べて、「最後の敵として死が破壊される[8]」と言っています。なぜなら、「この死すべきものが命によって飲み込まれる[9]」とき、死は本当に打ち負かされるからです。



[1] 1P.5,8.

[2] Lm.4,20.

[3] Lc.1,35.

[4] Ep.2,6.

[5] 1Co.15,22.

[6] Ap.21,4.

[7] 1Th.4,15.

[8] 1Co.5,26.

[9] 2Co.5,4.