しかし、アイの軍隊の面前から退却するイエスを考察する私に[1]、さらに別のことがこの個所の中で現れてきます。退却するイエスが示すことは何であると、あなたはお考えですか。私たちは見てみましょう――私たちが退却することによって打ち勝つものがあるのではないか、また、退却の中に何らかの完全な徳があるのではないかと。使徒パウロは、私たちに教えて言っています:「あなた方は姦淫から退却しなさい[2]」。ですからあなたは、私たちが――とにかく私たちがキリストの中で純潔かつ敬虔にそして慎ましく留まる望むなら―――退却しなければならないところの或る「姦淫の霊[3]」の霊が存在するのを見ます。ですからそれが、救いを持つ退却です。それが、徳に属する退却です。それが、至福をもたらす退却です。そして、「姦淫の霊」のみから退却すべきではありません。「あなた方は姦淫から退却しなさい」と言われているように、同じような仕方で、「あなた方は怒りから退却しなさい」、「あなた方は貪欲から退却しなさい」、「あんた方は妬みと嫉妬から退却しなさい」、「あなた方は中傷と悪口から退却しなさい」という言葉も、私たちに向かって言われるのを私たちは聞くでしょう。しかし、それらの事柄から誰かが逃げるかどうかを私は知りません。誰かが避けるかどうかを私は知りません。

イエスが彼の兵士たちに退却すべきだと教えたところのアイの軍勢はそのようなものでした。そして、おそらく彼は彼らについて、ご自分の弟子たちに命じて言っているのでしょう:「もしも、彼らがあなた方をこの町の中で迫害するなら、あなた方は別の町の中へ退却しなさい。しかし、もしも別の(町の)中でもそうなら、あなた方はまた別の(町の)中に退却しなさい[4]」と。実際(イエスは)、私たちがその種の敵たちから退却することをお望みです。彼は、私たちがその種の諸々の悪から遠く離れることをお望みです。そして、もしも私たちが差し当たりそれらの悪との諸々の接触から退却することによって、それらを避けることができたなら、聖なるすべての諸々の力――それらは、おそらく使徒パウロが次のように言っているものでしょう:「彼らは皆、救いの嗣業地を受け取る者たちの奉仕のために派遣された奉仕的な霊ではないのですか[5]」と。おそらくそれらは、聖なるみ使いたちでしょう――は、私たちの精神の意図と信心を見て、また、私たちが悪霊たちの追撃に苦しみのを見て、私たちを追撃する者たちに対して立ち上がり、彼らすべてを背後から撃ち滅ぼします。実にイエスは、諸々の追撃に苦しむ者たちと共にいます――迫害する者たちと共にいるよりも。そして、それはまったく当然のことです。なぜなら、イエスは、姦淫から退却する者たちと共にいること、高慢から退却する者たちと共にいること、狡知と欺瞞から退却する者たちと共にいることを喜ぶからです。

ですから、もしも私たちが、書かれている諸々の事柄をそのように理解するなら、おそらくこの朗読個所は、聖霊のやり方に相応しく見えるでしょう。実際、アイの王が二重の木の中で吊されたことを私が知るとしても、どんな利益が私にあるでしょうか。しかし、十字架の力が二重であること――すなわち、その十字架の中でキリストは、肉において吊され、悪魔はその軍勢と共に打ち負かされます――私が知るなら、私の魂は神秘の理解によって建徳されるでしょう。そしておそらく、私たちが神秘の広がりをもっと崇高な仕方で拡げるなら、その木の中に、「善と悪の知識が存在する[6]」ことが理解されます。なぜなら、その(木の)中で善きキリストが吊され、悪しき悪魔が吊されたからです。しかし、悪は滅びるために、他方、善は「力によって」生きるために(吊されました)。それは使徒も、キリストについて言っているとおりです:「そしても彼は弱さによって十字架に付けられたとしても、神の力によって生きています[7]」と。いや、彼は、生きるためばかりでなく、生かすために(十字架に付けられました)。なぜなら彼は、「生かす霊となった最後のアダム[8]」だからです。

しかし、それらの事柄は象徴的に言われていると理解されねばなりません。なぜならキリストは、「命の木[9]」と言われているからです。しかし他の諸々の個所の中で、彼が祭司や生け贄や祭壇であることが明示されており、しかも、一方の理解によって他方の理解が妨げられません。むしろ、彼については象徴的に、一つひとつがそれぞれの場所で理解されます。それと同じように、今の場合にも、諸々の神秘の諸々の形象の中で一人の同じ方について取られた諸々の位格の多様性もそのことを妨げないでしょう。



[1] Jos.8,15.

[2] 1Co.6,18.

[3] Os.5,4.

[4] Mt.10,23. 引用句の中の第二文は、マタイ福音に見出されないが、オリゲネスは他の作品でも同じ形で引用している:cf.C.Celse.I,65 et Hom.Jg.9,1.

[5] He.1,14.

[6] Gn.2,9.

[7] 2Co.13,4.

[8] 1Co.15,45.

[9] Pr.3,18.