しかし私たちは、さらに引き続く諸々の個所の中で何が書かれているかを見ましょう。「そして彼らは、剣の口の中で彼らを打った――彼らの中から、救われる者や逃げ延びる者が残らなくなるまで[1]」と(聖文書は)言っています。

それらの事柄をユダヤ人たちが読むと、彼らは残酷になり、人間的な血に飢え乾きます――次のように考えて:聖なる人たちはアイに住む者たちを打ち、救われる者や逃げ延びる者が彼らの中から残らないようにするまで、と。しかし彼らは、それらの言葉の中で、諸々の神秘が投影されており、むしろ私たちに次のことが示されていることを理解しません:すなわち、悪霊たち――混沌が彼らの住居であり、彼らは深淵の中に君臨する――の中から、私たちはまったく一人も残さず、すべてを殺害すべきだということ。しかし、私たちは悪霊たちを殺害しますが、彼らの実体そのものを滅ぼしません。しかし、彼らの業と熱意は人間たちに罪を犯させることですから、もしも私たちが罪を犯すなら、まさにそのことが彼らの命であり、もしも私たちが罪を犯さないなら、疑いもなくそのことは彼らの滅びです。ですから聖なる人たちは誰でも、アイの住人たちを殺し、滅ぼし、彼らの内の誰一人のして逃しません。疑いもなく彼らは、全き熱意を持って自分たちの心を守り、その心から諸々の悪しき思いが進軍しないようにしています。さらに彼らは、「一切の悪しき言葉[2]」が彼らの口から進軍しないように、自分たちの口を注意します。それが、逃げ延びる者を残さないというとです――実に悪しき言葉が彼らから逃げ延びないとき。

ですからあなた方も、行動しましょう。私たちは、その種の諸々の戦闘の準備をしましょう。私たちは剣の口の中でハイを打ちましょう。そして私たちは、混沌に住むすべての者たちを、敵対的なすべての力を絶滅させましょう。とにかくこの私も、あなた方に向かって神の言葉を語る今、罪人の心を打ち叩くことができますように。そして、もしも私がそのことをしたなら、次のことは確実です:私が私の口の剣によって姦淫を打ち、邪悪を打ち、激怒を抑えること、そして、もしも他の諸々の悪が存在するなら、私が「剣の口の中で」すなわち、私の口の言葉によってそれらを抹消すること、そしてそれらの中から、「救われる者や逃げ延びる者」が残らないようにすること[3]

実際、もしも私たちが、それらの私たちの敵を絶滅したなら、そのとき私たちは本当に、神のために祭日を祝うでしょう。そして、敵対する者たちが打ち負かされることによって、私たちは喜ばしい荘厳祭に歓喜するでしょう。何かしらそのようなことが、聖なる預言者によっても諸々の詩編の中で示されているように私には見えます。その中で彼は、自分自身について言っています:「諸々の朝の中で、私は土地のすべての罪を殺害しました――不正を働くすべての者たちを主の都から滅ぼすために[4]」と。あるいは、(この)「主の都」が、生ける神の教会として受け取られるなら、(教会の)教師たちは、「不正を働く者たち」、すなわち、人間たちを罪へと強いる対立する悪霊たちと敵対する諸々の力を教会から投げ出します――教え、制定し、いま私たちが手にしているような諸々の個所の諸々の文字の中に隠された諸々の神秘を解錠することによって。あるいは、「主の都」を、私たち一人ひとりの魂――主によって「諸々の生ける石から[5]」、すなわち、多種多様な諸々の徳力から建てられた魂――として私たちが理解するなら、そのような都からも、勤勉で聖なる人は誰でも諸々の罪を、即ち、諸々の最悪の考えと諸々の邪悪な欲望を、朝の中で投げ出すでしょう。実際、義人は、「諸々の朝の中で、私はあなたの中で黙想します。なぜならあなたは、私の助け手だったからです[6]」と言っています。この朝は何でしょうか――私たちの主イエス・キリストでなければ。彼は「真の光[7]」であり、「私たちの諸々の心の中で昇る[8]」方、私たちの無知の諸々の闇を照らす方です。そして彼は、この種の諸々の神秘を私たちのために開示し、私たちをして「彼の光の中で光を見[9]」せしめます。

ですからもしもあなたが、聖なる諸々の文書の中に義人たちの諸々の格闘と、滅ぼされる者たちの諸々の殺害と諸々の虐殺を読むなら、そして、聖なる人たちが敵たちを一人も容赦していないのを読むなら、いやむしろ、万が一彼らが容赦したなら、彼らは罪に問われる――アマレクの王アガグを生け取りにしたサウルが(罪に)問われたように[10]――のを読むなら、あなたは、私たちが上で説明した仕方で、義人たちの諸々の戦いを理解して下さい:すなわち、義人たちによるそれらの戦いは、罪に対して行われると。しかし、彼らはどのようにして義人のままでいるでしょうか――もしも彼らが、自分たち自身の中に罪の何某かを少しでも保持していたとすれば。そこで、彼らについて言われています:「彼らは、救われる者や逃亡する者を一人も残さなかった[11]」と。

おそらくあなたは、罪に対する戦いが私たちに課せられていることに関して私を信じないかもしれません。しかし、「あなた方はまだ、罪に対して血に至るまで抵抗したことがありません[12]」というパウロを、あなたは信頼して下さい。罪に対する戦い――しかも血の流出に至るまでその戦闘があなたによって遂行されるべき戦い――があなたに提示されていることをあなたはご覧になりますか。それとも、神的な文書は、次の言葉の中でも、明晰にそれらのことを示していないのですか。すなわち、「あなた方は戦闘を聖化しなさい[13]」、「あなた方は主の戦いを戦うだろう[14]」と言うのがその常です。

一体、他の戦闘があるでしょうか――諸々の罪の諸々の悪徳である私たちの魂のすべての敵たちを滅ぼすことによって、そして、「土地の上にある諸々の肢体を死に至らしめる[15]」ことによって、そして、すべての悪しき諸々の情欲を切り落とすことによって、「身体と霊とにおいて[16]」聖なる者になること、そして、有徳的に振る舞うことによって生ける神の御前に来ること、そして、勝利の棕櫚として、徳の功績によって私たちの主キリスト・イエスによって栄冠を授けられること以外に。彼に「栄光と力が代々にありますように。アーメン[17]」。



[1] Cf.Jos.8,22-24.

[2] Ep.4,29.

[3] Cf.Jos.8,22-24.

[4] Ps.100,8.

[5] 1P.2.5.

[6] Cf.Ps.62,7.

[7] Jn.1,9.

[8] 2P.1,19.

[9] 2P.1,19.

[10] Cf.1S.15,8-11.

[11] Cf.Jos.8,22.

[12] He.12,4.

[13] Jl.4,9.

[14] 1S.18,17.

[15] Col.3,5.

[16] 1Co.7,34.

[17] 1P.4,11.