第九講話

 

 イエスが建て、その諸々の石の中に申命記を書いたところの祭壇について。そして、どのようにして彼は、ゲリジム()とエバル()の中に立つ民の全体の諸々の耳の中でそれを読んだのか。そして、どのようにして、アモリ人たちの王たちは、イエスに対して集結したのか。

 イエスがアイを、すなわち混沌を転覆させ、そのすべての住人たちを取り除いた後で、彼はそのような偉大な勝利に相応しい供物を、いと高き万物の神に捧げねば成りませんでした。

では、彼が勝利の後で行うことは何なのか、私たちは見ましょう。(聖文書は)次のように言います:「イエスは、エバル山の中に、イスラエルの神、主のために祭壇を建てた。そして、神の僕モーセがイスラエルの子らに命じたとおりに、それを作った。ところで、モーセの律法の中で、祭壇は、鉄器が振り下ろされていない完全無欠な諸々の石から作られると書かれていた」。そして、イエスが祭壇を作った後、彼は、「主のための諸々の焼き尽くす供え物」をそこに置き、「救いの生け贄を屠った」。そして生け贄の後、「イエスは、諸々の石の中で申命記[1]、モーセの律法を書いた。そして彼は、イスラエルの子らの前でその律法を書いた。そして、イスラエルのすべての長老たちと判事たちと彼らの書記たちは、あちらこちらへと、主の契約の箱に先立っていた[2]」と。ですから、私たちは、それらすべての中で何が示されているか、そして、現在の朗読が私たちにどのような建徳をもたらしてくれるかを見てみましょう。

キリスト・イエスを信じるすべての私たちは、()文書が宣言しているように、「諸々の生ける石である」と言われます。()文書は、次のように言っています:「しかしあなた方は、諸々の生ける石で、聖なる祭司職の中で霊的な家として建てられます。それは、あなた方がイエス・キリストを通して神に受け入れられる諸々の霊的な生け贄を捧げるためです[3]」と。

そころで、私たちは次のことを知っています:すなわち、諸々の地的な石の中で、より堅固で強力な諸々の石が、最初に諸々の基礎の中に置かれることが遵守され、それによって、建物全体の重さがそれらに託され、それらの上に置かれることができます;他方、それに続く他の諸々の石は、すなわち、前者の諸々の石に比べて劣った諸々の石は、基礎の中にある諸々の石の隣りに配列されます;次に、(それらの劣った石より)さらに劣っていて、諸々の基礎(にある石)よりも少し優れた石は、諸々の弱い石の中でも比較的より上位の諸々の石の中に、しかも屋根の諸々の切り妻それ自体の近くに配置されるます。それと同じように今の場合も、諸々の生ける石についても、ある石たちこの霊的な建物の諸々の基礎の中にあると、あなたは理解すべきです。しかし、諸々の基礎の中に配置されるそれらの石は何でしょうか。(それらは)「使徒たちと預言者たち」です。実際、パウロはそのような意味で次のように言って、彼自身がそれらのことを教えています。彼は言います:「あなた方は、使徒たちと預言者たちの基礎の上に建てられています――私たちの主なるキリスト・イエスが角石それ自体になることによって[4]」と

しかし、聞いているあなたよ、あなたが、この建物の建設のためにより迅速に準備するには、基礎に近い何らかの石として見出されたいなら、まさにキリストご自身が、いま私たちが描写している建物の基礎であることを学んで下さい。実際、そのような意味で使徒パウロは言っています:「実際、キリスト・イエスという(既に)置かれた基礎を除いて、他の基礎を誰も置くことはできません[5]」と。ですから、そのように高貴な基礎の上に、宗教的で聖なる諸於呂の建物を建設した人たちは幸いです。

しかし、教会のこの建物の中には、祭壇もなければなりません。そこから私は、次のことを推論します:「諸々の生ける石」であるあなた方の内で、諸々の祈りに時間を割き、昼も夜も諸々の願いを神に捧げ、諸々の祈願の諸々の生け贄を屠る糊塗に相応しくなり、用意ができている人は誰でも、イエスが祭壇を建てる諸々の石です。



[1] deuteronomium:ギリシア語(七十人訳)では、「第二律法」という意味であるが、オリゲネスは、『申命記』に取っている。モーセの「律法の写し」というのが本来の意味である。

[2] Cf.Jos.8,30-33.

[3] 1P.2,5.

[4] Ep.2,20.

[5] 1Co.3,11.