しかし、あなたは、祭壇の諸々の石そのものに賞賛の何が帰されるかに注目すべきです。(聖文書は)言います:「祭壇は、鉄器が振り下ろされていない諸々の完全無欠な石から建てられねばならないと、律法者モーセが言ったとおりに[1]」と。それらの完全無欠な石は何であると、あなたは考えますか。次のような人それぞれの意識がそれを知っています――完全無欠な人、腐っておらず、汚染されておらず、肉と霊の中で汚れない人、「鉄器が振り下ろされていない」人、すなわち、欲望という「悪者の着火した諸々の矢[2]」を受け取らず、「信仰の楯」によってそれらを消して跳ね返した人、あるいは、戦いの鉄器、戦争の鉄器、諸々の格闘の鉄器を決して受け取ったことがなく、常に平和的で、常に物静かで柔和で、キリストの謙虚さによって形成された人。ですから彼らこそ、「諸々の生ける石」です。私たちの主イエスは、それらを、「鉄器が振り下ろされていない諸々の完全無欠な石として、祭壇を建てました」――それらの上で、諸々の(全燔祭の)供物と救いの生け贄を捧げるために[3]

私は次のことを考えます:すなわち聖なる使徒たちが、そのような諸々の完全無欠で汚れない石であり得ると。なぜなら彼らはみな、魂を一つにし心を一つにするが故に、同時に一つの祭壇を作るからです。実際、彼らはみな同時に「魂を一つにして祈り[4]」、自分の口を開いて「すべてのものの心をご存じのあなた、主よ[5]」と言ったと述べられています。ですから、魂を一つにして、一つの声と一つの霊によって祈ることのできた人たちは、おそらく、皆で同時に一つの祭壇――その上でイエスは、父に生け贄を捧げます――を建てなければならない人たちに相応しいでしょう。しかし私たちも、次のことを努力するように試みるべきです:すなわち、「私たちがみな魂を一つにして「諸々の同じ事柄を語り」、「一つのことを考え、競争や虚しい栄光によって名護とも行わず[6]」、むしろ、「一つの考えの中に、そして、一つの理解の中に」存続することを――もしも私たちも、祭壇のために適切な石になることができるなら。実際、私たちの主なるイエスは、私たちを見捨てません。むしろ、私たちが祈りに時間を割き、「私たちが然るべき仕方で何を祈るべきか知らなくても、霊ご自身が私たちのために、曰く言い難い諸々の呻きによって取りなしてくれます[7]」。「ところで、主は霊です[8]」。ですから、もしも霊が私たちの諸々の祈りを助けてくださり、私たちには説明できない諸々の呻きによって万物の神なる父にそれら(の祈り)を捧げるなら、(霊が)、私たちから祭壇の建設を熱心に求めるのも確実です。



[1] Jos.8,31.

[2] Ep.6,16.

[3] Cf.Jos.8,31.

[4] Ac.1,14.

[5] Ac.1,24.

[6] Ph.2,3.

[7] Rm.8,26.

[8] 2Co.3,17.