しかし、祭壇の装飾は、まだ十全ではありません――たとえそれが、「諸々の完全無欠な石」から建設されるとしても、たとえ「鉄器」がそれらに加えられず、悪人の矢がハゲ込まれているのが見出されないとしても――。何かがまだ欠けています。そして、イエスがそれらすべてに付け加えるべきものがまだあります。それは何でしょうか。「イエスは、祭壇の諸々の石の上に、申命記[1]すなわちモーセの律法を書いた。そして彼は、それをイスラエルの子らの前で書いた[2]」と、(聖文書は)言っています。彼は、ヌンの子(イエス)が当時に祭壇の諸々の石の上に律法を記述できたように書いたでしょう。そして彼は、可能な限りで、諸々の雛形を投影したでしょう。私たちは差し当たり、どのようにして私たちのイエスが、「完全無欠で生きた諸々の石の中に」、申命記を書いたのかを見てみましょう。

申命記は、第二の律法のように言われています。ですから、もしもあなたが、第一の律法が無効にされた後、どのようにしてイエスが第二の律法を書いたのを見たいなら、彼が諸々の福音の中で次のように言っているのを、あなたはお聞きください:「昔の人たちに、『あなたは殺すな』ということが言われた。しかし、私はあなた方に言う:自分の兄弟に怒る人は皆、人殺しである[3]」。また、「昔の人たちに、『あなたは姦淫するな』ということが言われた。しかし、私はあなた方に言う:もしも人が、女を欲しがって見つめたなら、その人は既に自分の心の中で姦淫したのである[4]」。さらに、「昔の人たちに、『あなたは偽証するな』ということが言われた。しかし、私はあなた方に言う:あなた方は決して誓おうとしてはならない[5]」と。あなたは、次のことを見るでしょう:すなわち、イエスが、「諸々の生ける完全無欠な石の中に」書いた申命記は、「諸々の石の板の中にでなく、心の肉的な板の中に、墨によってでなく、生きている神の霊によって[6](イエスが書いたことを)

しかし、もしもあなたが、どのような諸々の心の中にイエスが律法を書いたのか、そしてどのような(諸々の心の)中に書かなかったのかをもっと明晰に知りたいなら、私はさらに次のことを、諸々の()文書の権威からあなたに開示します――「諸国の民らから呼び出された[7]」あなたが、慰めを獲得するため、そして、諸々の書板や諸々の紙に書かれたモーセの律法を受け取ったことを誇る者たちの自慢を、あなたが恐れないようにするためです。ですからあなたは、どのような人たちの心の中に主イエスは律法を書いたかをお聞き下さい。パウロは言っています:「実際、律法を持たない異邦人たちが、律法に属する事柄を自然本性的に行うとき、彼らは、そのような律法を持たなくても、彼ら自身が律法です。彼らは、律法の業が自分たちの諸々の心の中に書かれていることを明示しています。良心も、彼らのために証しています[8]」と。ですから、もしもあなたが、異邦人たちがイエスの許に来て、彼を信じ、律法の業――律法を受け取った前出の人たちにはないし遂げられない律法の業――を成し遂げるのを見るなら、あなたは、彼らについて次のように言うのをためらってはなりません:「イエスは、それらの完全無欠な諸々の石の中に申命記を書いた」と。



[1] deuteronomium:ギリシア語(七十人訳)では、「第二律法」という意味であるが、オリゲネスは、『申命記』の意味に取っている。モーセの「律法の写し」というのが本来の意味である。

[2] Jos.8,32.

[3] Cf.Mt.5,21.

[4] Cf.Mt.5,27.

[5] Cf.Mt.5,33.

[6] 2Co.3,3.

[7] Rm.9,24.

[8] Rm.2,14-15.