もちろん、()文書が続く諸々の個所の中で付け加えたことも、私を動かします。「そしてイエスは、諸々の石の上に申命記を書いた――イスラエルの子らの前で[1]」と、(聖文書は)言っています。どのようにして彼は、それほど大きな書を、その場に立ち会い、留まっているイスラエルの子らのために書くことができたのか――かくも多くの節句の筆記が終わるまで彼らが立ち去らない程度に。あるいは、祭壇の諸々の意志はどのようにしてかくも大きな書の内容を担うことができたのか。あの文字の擁護者たるユダヤ人たち――彼らは、律法の霊を知りません――は、私にそれを言うべきです。どのようにして、そのことの中に物語[歴史]の真理が見出されるでしょうか。しかし彼らの許では、「今日に至るまで、モーセが読まれるときは、彼らの心の上に覆いが置かれました[2]」。しかし、「主イエスの方に向き直った私たちには、覆いは取り去られます[3]」。なぜなら、「主の霊のあるところに、理解の自由があるからです[4]」。

ですから、主なる私たちのイエスは、多くの時間を必要としません――申命記を書くために、第二の律法を信じる人たちの諸々の心の中に釘付けにするために、さらに、祭壇の建設のために選ばれるに相応しいとされた人たちの諸々の精神の中に霊の律法を記すために。なぜなら、人がイエス・キリストを信じると、福音の律法も彼の心の中に描かれ、「イスラエルの子らの前で」描かれたからです。実際、信仰の秘蹟があなたに渡されたとき、諸々の天的な力、み使いたちの諸々の奉仕、「長子たちの教会[5]」が立ち会っていました。実際、もしも私たちが、イスラエルは精神によって「神を見る者」と言われることを正しく理解するなら、そのことは、奉仕者としてのみ使いたちについてむしろ最も正しく言われます――幼子たちについて次のように言う主の判断に従えば:「あなたも、洗礼の中で幼子でした。なぜなら、彼らのみ使いたちは、諸々の天の中にいる私の父の顔を常に見ている[6]」からです。ですから、信仰の秘蹟があなたに渡された時の中で立ち会っていたイスラエルの子ら、すなわち、神の顔を見る者たちの前で、イエスは、あなたの心の中に申命記を書きました。

しかしあなたは、私たちがあなたのために、これらのこと、すなわち、「イスラエルの子らの前で、イエスが第二の律法を書いた」ことを、聖なる諸々の文書からもっと判明に証明することをお望みですか。使徒は、ヘブライ人タイに向かって明白に示して言っています:       「実際、あなた方は、角笛の音と燃え立つ山の方に昇ったのではありません。あなた方は、シオンの山と生ける神の都、天的なエルサレム、そして、諸々の天の中に登記された長子たちの教会、そして、ともに神を讃えるみ使いたちの大群の方へ昇りました[7]」。ですから、あなたは、次のことを見ます:すなわち、常に神を見ているが故にイスラエルの子らと相応しく呼ばれるそれらすべての者たちの前で、イエスはご自分の律法を、信じる者たちの諸々の心の中に書いたと。

しかし今でも、私たちの語る諸々の事柄を通して、イエスは申命記を、次の人たちの諸々の心の中に書きます:すなわち、彼らは、言われる諸々の事柄を健全無欠の信仰と全き魂をもって受け入れます;彼らは、完全無欠の傾聴と完全無欠の心をもって、しかも、信仰をめぐる腐敗した咎めるべき理解を抜きにして、言われる諸々の事柄を傾聴し、保持します。なぜなら、申命記は、「完全無欠の諸々の石の中に」書かれる必要があるからです。



[1] Jos.8,32.

[2] 2Co.3,15.

[3] 2Co.3,16.

[4] 2Co.3,17.

[5] He.12,23.

[6] Mt.18,10.

[7] He.12,18-22.