実にそれらの事績を、古の人たちの諸々の歴史は述べています。しかし、どのようにして私たちは、歴史のこの物語を神秘的な理解に差し戻しましょうか――ゲリジム山の近くを進む者たちは誰であるか、そして、エバル山の近くを進む者たちは誰であるかを、私たちが示すために。

私は、信仰によって急行し、救いのために急ぐ人たちには二種類あると思っています:すなわち、彼らの一種類は、天的な諸々の約束の欲求によって火を着けられ、最小限の至福も逃さないようにと、最高の熱意と勤勉をもって努力します。彼らは、祝福を獲得し、「聖人たちの取り分の中に[1]」いる欲求を持つばかりでなく、神の御前に居合わせ、常に主と共にいる欲求を持っています。しかし、他の人たちは、彼らも救いへ向かいますが、諸々の祝福の愛や諸々の約束の諸々の欲望によって火を着けられるよりも、次のように言うことによってそのことを持っています:ゲヘナの中に行くだけでは私に十分ではい;永遠の火の中に送られるだけでは私に十分ではない;「外的な諸々の闇の中に追い出される[2]」だけでは私に十分ではない、と。

ですから、信者たちの一人ひとりの中には、そのような意図の違いがありますから、次のことが、この個所の中で示されていると私には思われます:すなわち、あのゲリジム山の近くを進む人たち、諸々の祝福のために選ばれた半分の人たちは、罰の恐れによってではなく、諸々の祝福と諸々の約束との欲求によって救いに至る人たちを象徴的に示しています;他方、エバル山――その山の中で諸々の呪いが表明されます――の近くを進む半分の人たちは、律法の中に書かれている諸々の事柄を、諸々の悪の恐れと諸々の責め苦の恐怖とによって成就し、救いに至る人たちを示している、と。

ここで、イスラエルの子らである私たち全員の中から、誰が、善それ自体の欲求によって火を着けられ、善である事柄を行うか、また、私たちの内の誰が、ゲヘナの恐れと永遠の火の恐怖によって善に向かい、(律法に)書き記された諸々の事柄を熱心に急いで行うかは、神だけがご存じです。実際、善それ自体の欲求と諸々の祝福の愛によって善であることを行う人たちは、悪の恐れの故に善を追い求める人たちより高貴であるのは、確実です。ですから、イエスだけが、一切の民の中から、そのような諸々の精神と諸々の魂を見分け、一方の人たちを諸々の祝福のためにゲリジム山の中に立たせ、他方の人たちを諸々の呪いのためにエバル山の中に立たせます――とはいえそれは、彼らが諸々の呪いを受けるためではなく、予め定められ立てられた諸々の呪いと、罪人たちのために定められた諸々の罰を考慮に入れることによって、それらに遭遇することを回避するためです。



[1] Col.1,12.

[2] Mt.8,12.