それらの事柄の後で、次のことが述べられています:「イエスは、律法のすべての言葉、諸々の祝福と諸々の呪いを読んだ――律法の書の中に書かれているすべての事柄に従って。モーセが命じたすべての事柄の中で、イエスがイスラエルの子らの一切の教会の前で読まなかった言葉は何もなかった[1]」と。

実に歴史の説明は簡単です:すなわち、どのようにしてヌンの子は、「モーセがイスラエルの子らの一切の教会の前で書いた律法の諸々の言葉」を読んだのかを。しかし、私たちの主イエスが、どのようにしてそのことをご自分の民に行うのかを示すことは、無駄でないように私には見えます。

私は、次のことを考えます:すなわち、モーセが私たちのために読まれ、神の恵みを通して「文字の覆いが取り除かれ[2]」、私たちが「霊的な律法がある[3]」ことを理解し始めたり;たとえば、律法が「脱穀している雄牛の口に、あなたは口籠を掛けてはならない[4]」と言うとき、その律法は、それらの事柄は雄牛たちについてでなく、使徒たちについて言ったと私たちが理解し始めたとき;さらには、律法の中で「アブラハムは二人の息子を持っていた。一人は奴隷の女からの息子、もう一人は自由の女からの息子[5]」と読まれるとき、私はそれらの中で二つの契約と二つの民が関わっていることを理解するなら;そのように理解される律法――パウロはそれを「霊的な(律法)」と名付けています――を、主なるイエスは私たちのために読みます。実に彼がこそが、それらの事柄を一切の民の諸々の耳の中で朗読するのであり、私たちが、「殺す文字」に従うのでなく、「生かす文字」を守るように勧めています[6]

ですからイエスは、私たちのために律法を読みます――彼が私たちのために律法の諸々の秘密を開示するとき。実際、普遍的教会に属する私たちは、モーセの律法を蔑視せず、むしろ、それを受け入れます――だだし、イエスがそれを私たちのために読んだ限りで。実にイエスが私たちのためにそれを読み、彼が読むことによって私たちがその意図と理解を獲得するならば、私たちはそれを正しく理解したことになるでしょう。それとも、次のように言っていた人は、それによって(その)意図を把握したと考えてはならないのでしょうか:「しかし、私たちはキリストの意図を持っています――神から私たちに贈与され、そして私たちが語っているところの諸々の事柄を知るために[7]」。そして、次のように言っていた者たちも(それによってその意図を把握したと考えてはならないのでしょうか):「私たちの心は、私たちの中で熱かったではないか――彼が私たちに諸々の()文書を道の中で開き[8]」、「モーセの律法から始めて預言者たちに至るまで、彼らのためにすべての事柄を読み、自分自身について書かれている諸々の事柄を開示したとき[9]」。

しかしながら、書かれている諸々の事柄の中に み言葉の驚くべき形象が明示されています――彼が次のように言うとき:「モーセが命令したすべての事柄の中で、イエスがイスラエルの一切の教会の諸々の耳の中で読まなかった言葉は何もなかった[10]」と。

そして、まず私たちは、「諸々の耳の中で読んだ」ということが何を示しているか見てみましょう。私は、私たちの説教が聞き手の人たちにある人たちを不快にしているのではないかと心配しています。しかし、「私たちは書かれていることを言う」と、言わねばなりません。すなわち、この言葉は次のように私たちを非難しています:律法を聞く私たちのすべてが、イスラエルの子らの教会に属しているのではありません。しかし、律法の聞き手の人たちとイスラエルの子らの教会のとの間に何らかの違いがあるにしても、そのことから直ちに、聞き手が救いから排除されるのではありません。



[1] Jos.8,34.

[2] 2Co.3,16.

[3] Rm.7,14.

[4] Cf.Dt.25,4; 1Co.9,9.

[5] Ga.4,22.

[6] 2Co.3,6.

[7] Cf.1Co.2,16.

[8] Lc.24,32.

[9] Lc.24,27.

[10] Jos.8,35.