ですから、あなた方は、次のように言う()文書の諸々の言葉にもっと注意して下さい:「モーセが命じたすべての事柄の中で、イエスがイスラエルの子らの一切の教会の諸々の耳の中で読まなかった言葉は何もなかった」と。さらに、(聖文書は)、「女子たちと幼児たちと新来者たちのために(読まなかった言葉は何もなかった)[1]」と付け加えています。

主なる私たちのイエスは、肉的な諸々の耳とは別の諸々の耳があることを知っています。そして彼は、ご自分の諸々の言葉の傾聴のためと律法の傾聴のためにそれら(の別の耳)を求めています[2]。それゆえ福音の中でも、彼がしかるべき諸々の事柄の一つ一つについて教えた後で、付け加えて言っています:聞くための諸々の耳を持つ者は聞くべきである[3]」と。実に、もしも彼が肉的な諸々の耳についてそれを言ったなら、余計なことのように見えます。実際、諸々の耳を持たずに、彼の諸々の言葉を聞くために集まる人は誰もいませんでした。しかし、彼は内的な人間の諸々の耳の中で、すなわち、心の知性の中で、言われた諸々の事柄が受け取られるべきことを知っていました。実際、み言葉を聞くことが何の役に立つでしょうか――もしも(それが)心の中に保持され、保たれないとすれば。それ故、彼は聞き手の人たちから諸々の耳を要求します。

ですから、今でも――諸々の()文書が教会の中で朗読されるときであれ、(その)解説の言葉が民に表明されるときであれ――私たちは、()文書の権威に従って次のことを言います:律法の諸々の言葉がイエスによって朗読されないのか、できるだけ多くの人たちに朗読されないのか、あなた方はご注意下さい。なぜなら、聞くための諸々の耳を持つ人たちに律法を朗読するからです。

しかし、(聖文書が)主の教会に「婦人たちと幼児たちと新来者たち[4]」を付け加えていることについても、もしも私たちが「婦人たちと幼児たちと新来者たち」を別々に理解し、彼らを教会の或る種の延長であると理解するなら――なぜなら、「大きな家の中には、金と銀の諸々の器があるだけでなく、木や土の諸々の器もある[5]」からです――、強い男たちには強い食べ物が渡されると、私たちは言います。彼らについて使徒は、「固い食べ物は、健全な人たちに属している[6]」と言っています。()ご自身は、彼らの中からご自身のために「染みも皺も、それらに類するものを持たない[7]」教会を準備します。他方、(聖文書が)「婦人たちと幼児たちと新来者たち」という呼称の中で区別する人たちは、未だに「乳を必要とする[8]」人たちである、あるいは、婦人たちのように「弱い者たち」として、「諸々の野菜を食べる[9]」人たちであると、私たちは理解すべきです。しかし、一切の教会が同時に捉えられるなら、「男たち」は、あらゆる事柄の中で完全者として、「悪霊の数々の策略に対して武装して対抗する術を知っている[10]」者たちであると理解されます。他方、「婦人たち」は、有益な諸々の事柄をまだ自分たちだけで成し遂げることができず、「男たち」を模倣し、彼らの諸々の手本を模倣しなければならない人たちです。彼女たちは、彼らの中から頭を持つべきであると言われています:「実際、男は婦人の頭である[11]」と。それに対し、「幼児たち」は、信仰が抱かれたばかりで福音的な乳によって養われる人たちでしょう。しかし、「新来者たち」は、求道者たちであると見られるでしょう。あるいは彼らは、信者たち(の交わり)に結ばれることを熱望する人たちであると見られるでしょう。彼ら一人ひとりについて、ヨハネも諸々の類似の事柄を感じて、部分の書簡の中で書き、一つひとつの年齢に適した諸々の振る舞いを識別しています[12]

しかしながら、イエスが律法を朗読し、あなた方の諸々の心に霊的理解を開示して下さるのですから、「新来者たち」すなわち求道者たちであるあなた方は、いつまでも求道者のままでいるべきではなく、神の恵みを得るために急がなければなりません。そうすればあなた方も、イスラエルの子らの教会の中に数え入れられるでしょう。そして、あなた方「幼児たち」は、「諸々の判断において子どもになろうとせず、邪悪において幼子でありなさい。そして、諸々の判断において完全な人でありなさい[13]」。それは、使徒もヘブライ人たちに宛てていっている通りです:「私たちは、キリストの諸々の原理の言葉を後に残し、完成へと導かれましょう[14]」。しかし、「婦人たち」の呼称の下に、弱く、温厚で、か弱いあなた方は、次のように勧告されるべきです:「あなた方は、弱い諸々の手と萎えた諸々の膝を真っ直ぐにしなさい[15]」と。すなわち、あなた方は、怠惰で無為な諸々の魂を奮い立たせ、実行されるべき律法的かつ福音的な諸々の命令の中で男性的な堅忍さを受け入れ、力強い男たちの完成へと速やかに向かうべきです。

実際、神的な文書は、性に即した男たちと女たちの分離を知りません。実に性は、神の許ではいかなる違いでもあります。魂の違いに応じて、男や女が示されます。性において女たちの中でどれだけ多くの女たちが、神の許で強い男たちの中に加須れらえている可。そして、男たちの中でどれだけ多くの男たちが温厚でか弱い女たちの間に数えられますか。それとも、次のように言う男は、女たちの間に数えられるべきであるとあなたには見えませんか:すなわち私は、書かれている諸々の事柄を守れない――私が「持っている諸々のものを売り、貧しい人たちに与える[16]」ことができない;私は、「殴る人に別の顎を提供する」ことはできない;「悪口を言う人を祝福する」ことは私にはできない。「侮辱されているのに、祈る」ことは私にはできない[17];「迫害を耐え忍ぶ[18]」ことは私にはできない;また、命じられているその他の同様の諸々の事柄を、私は成し遂げることができないと言う人は、男性的なことを何もできない女たちの間以外の何に数えられるべきだと、あなたに見えるでしょうか。



[1] Jos.8,35.

[2] Cf.Hom.Gn.3,5.

[3] Mt.13,9.

[4] Jos.8,35.

[5] 2Tm.2,20.

[6] He.5,14.

[7] Ep.5,27.

[8] He.5,12.

[9] Rm.14,2.

[10] Ep.6,11.

[11] 1Co.11,3.

[12] Cf.1Jn.2,12sv.

[13] 1Co.14,20.

[14] He.6,1.

[15] He.12,12.

[16] Mt.19,21.

[17] Cf.Lc.6,28-29.

[18] 1Co.4,12.