(a)悪の問題

 

 本講話では、信者が主要な聞き手となっているため、無神論は直接的に取り上げられていない。しかし悪の問題は、神の善性や摂理を脅かし、ひいては創造神の全能を損ないかねず、キリスト者の信仰を動揺させ、また異教徒や異説者には、キリスト教を攻撃する格好の口実を与えてきた。したがってこの悪の問題は、キリスト者の信仰を守る観点から、本講話の随所で取り上げられている。その問題についての彼の見解を、ここに簡単に要約すれば、地上にある善きものは神の創造にかかるものであり、悪しきものは人間が作った[1]。そして罪人に加えられる罰や苦しみは、彼らに回心のきっかけを与えるものなのである[2]  

 罪人が被る悪の理由についてはこのように説明することができるが、罪を犯しえない幼児が被る悪についてはどう考えればよいのか。オリゲネスは、それを説明するのにプラトンの輪廻転生――これはオリゲネスが親しんだヌメニオスやアンモニオス・サッカスが取り上げている――から着想を得ている。すなわち人間の魂は、もともと天上の世界にあったが、罪を犯し、その罰としてこの世界に下り、身体を得た。やがて人間は、償いを果たし、罪から浄化されることによって天上の世界に帰るように招かれている。しかし浄化が不十分な人間は、浄化が全うされるまで、次から次へと別の世界に転生しなければならない。オリゲネスは、このような考えを諸原理について[3]で「仮設」としてかなり詳細に展開しているが、厳密にプラトンの考える輪廻転生と同じものではない。オリゲネスは、人間の魂が動物の体の中に宿ることに反対している[4]。しかしオリゲネスは、この輪廻転生にも似た仮説がもたらす誤解を避けるために、それに関する発言は慎重になったが[5]、本講話にもそれを暗示させる箇所が幾つか見出される。その例を二つほど挙げると、  

 実際、私たちが、悪行の場に身を置いたとき、居住地は落ちたのです。「私たちが罪を犯し、冒涜を働き、不正を重ねた」(Dn.9,5)とき、この居住地は(上から)落ちてしまいました。そしてそれは、再び上に上げられることを切望しているます[6]  

 「それゆえ主は、こう言われる。もしもあなたが立ち返るなら、私もあなたを回復させよう、と」(Jl.15,19)。この言葉も、神がご自分に立ち返るように招く人たちのそれぞれに言われています。しかし「私はあなたを回復させよう」というこの言葉には、神秘が示されていると私には思えます。どんな人でも、自分がかつて一度もいたことのない場所に回復されることはありません。かえって回復は、(かつていた)固有な場所への回復なのです[7]



[1] Hom.Jr.II,1,7; XVIII,3: 自由意志を持つ者は自由なのです。そして私はこう申し上げたいと思います。牧者の手から奪い去る者は誰もいませんし、誰も神の手から私たちを取り去ることはできません。むしろ私たちが、みずからの怠慢によって、彼の両手から落ちていくことができるのです。

[2] Hom.Jr.VI,2.

[3] De Princ.I,8,1; III,5,3.

[4] Cf.Hom.Jr.XVI,1 : もしもあなたが仮に、魚の魂が魚の身体から出て変化し、何かしら魚以上に優れたものになるのを理解できたなら――私はこれを、例えとして言っています。誰も、(実際に私から)聞いたことのない事柄(を非難するため)の口実としないでください――、あなたはおよそ次のようなことを理解できるでしょう。

[5] 最晩年の著作群に属するケルソスへの反論V, 29では、それを公然と説くべきではないと主張されている:「体の中に入る諸々の魂に関する教え――それは輪廻転生(metenswma,twsij)によるものではない――は、素人の人たちの耳に投げ与えられるべきではない。聖なるものは、犬に与えられるべきではなく、真珠は豚に投げられるべきではない」。

[6] Hom.Jr.VIII, 1; cf. V, 14; VII,2-3; L.II,3.

[7] Hom.Jr.XIV,18; cf. V, 14; VII,2-3; L.II,3.

 

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