第十五講話

シメオンについて。霊において神殿に来たことから、「主よ、あなたは今こそ、あなたのしもべを平和の内に去らせて下さいます」と言っている箇所まで[1]

 神の好意に相応しい理由が求められねばなりません。どうして、「神に喜ばれた聖なる男」シメオンは、福音書に書き記されているように、「イスラエルの慰めを待ち望みつつ、主のメシアを見るまでは死去しないという応えを聖霊から受け取った[2]」のでしょうか。キリストを見ることは、彼にとってどんな利益があったのでしょうか。彼がキリストを見ることだけが約束として与えられていて、見ることからは何の利益も得られないのでしょうか。それとも神に相応しい何らかの賜物が隠されて、それを幸いなるシメオンは相応しく受け取ったのでしょうか。「婦人がイエスの着物の房に触れて癒された[3]」とあります。もしも彼女が着物の端の部分に触れただけで、利益を得たとすれば、シメオンについて何を考えたらいいでしょうか。彼は、「幼児を自分の両腕に抱いて[4]」、その子を腕に抱きながら、心から喜びました。なぜなら彼は、囚われ人たちの縄目を解き、自分を身体の束縛から解放するために来た幼児が自分によって抱かれているのを見たからです。彼は、自分の腕に抱いている方を除いて、いかなる人をも来世の希望の内に身体の牢獄[5]から解放できる人はいないと知っていました。



[1] Lc.2,25-29.

[2] Lc.2,25-26.

[3] Lc.8,44.

[4] Lc.2,28.

[5] claustrum corporis.Cf.Platon, Paedr.250C et Gorg.493A; Philon, De Migr.9 (SC 47, p.26).

 

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