次に聖書は言っています。「シメオンは、彼らを祝福して、その母マリアに言った。『見よ、この子はイスラエルにいる多くの人々の滅びと立ち直りのために、そして逆らいを受けるしるしとして置かれた。そして剣があなた自身の魂を貫くでしょう。それは多くの人たちの心の思いが明らかにされるためです[1]』」。どのようにして救い主が、「多くの人々の滅び[2]と立ち直りのために」来たのかが考察されねばなりません。単純に説明する人は、彼が不信仰な人々の滅びと信仰ある人々の立ち直りのために来たと言うことができるでしょう。しかし注意深い解釈者なら、かつて立っていなかった人が倒れるとは決して言わないでしょう。どうか私に次のように言わせてください。かつて立っていた人、その人の「滅び」のために救い主は到来されたのであり、しかもその人はやがて立ち上がらねばばりません。実際、かつて倒れていた人、その人が立ち上がるのです。したがって救い主は、ある人たちの「滅びのために」、そして他の人たちの「立ち上がりのために」来たのではなく、同じ人たちの「滅びと立ち直りのために」来たのではないかと理解されねばなりません。救い主は、「私は、裁きのために来た。それは、見えない人々が見えるようになり、見える人々が見えない人になるためである[3]」と言います。たしかに私たちの内には、一方で、以前は見えたが後で視力を失ったもの、他方で、かつては見えなかったが後で視力を持ち始めたものが存在します。たとえば私は、以前は視力を欠いていたが後に開かれた目で見たいと望んでしまいます。なぜならアダムとエバの不従順によって目が開かれたからです。この目については前回の講話で私たちは扱いました[4]



[1] Lc.2,34-35.

[2] 「滅び」と訳した原語ruinaには、転倒、倒壊の意味も含まれている。

[3] Jn.9,39.

[4] 前回の感謝の祭儀でなされた第十六講話をさす。そこではいわば「霊の目」と「肉の目」が取り扱われた。

 

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