私たちはどこか他の箇所にも、幼子について、「彼は成長し、強くなった[1]」と書かれているか探してみましょう。それは、多くの箇所を比較対照することによって[2]、私たちの主についてさらに何が言えるかを、私たちが知ることができるようになるためです。私たちはヨハネについて、「幼児は成長し、強くなった」と読みます。しかしながら「知恵に再び満たされた[3]」という言葉が付け加えられていません。むしろ「霊において強くなった」という言葉が付け加えられています。ところがここでは主について、「彼は成長し、強くなり、霊に再び満たされた。そして神の恵みが、彼の上にあった」と言われています。以上のことは皆、まだ十二歳に満たない子供について言われたものです。

 さて、彼が十二歳になったとき、彼はエルサレムにいました。彼の両親は、(彼がどこにいるのか)知らず、心配して探しましたが、見つけられませんでした。彼らは「親族の人たちの間」を探しました。彼らは「道連れの中」に探しまた。彼らは「知人たちの間」を探しました。しかし両親は、それらの人たちの中に見出しませんでした。このようにイエスは、ご自分のご両親によって、彼の養父であり、エジプトに下るとき彼の同伴者であった父によって探されました。しかしイエスは、捜索が開始されてもすぐには見出されませんでした。実際イエスは、同族の者たちや肉で結ばれた親族たちの間には見出されません。彼と身体的に結ばれた人たちの中に見出されません。多くの同伴者たちの中にも、私のイエス[4]は見出すことができません。



[1] Lc.2,40.

[2] ex collatione multorum; オリゲネスの聖書解釈の常套手段である。

[3] Lc.2,40.

[4] Iesus meus:これまでにもしばしば出てきた表現で、イエスに対するオリゲネスの愛着を非常によく表している。

 

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