第十九講話

再び「他方、幼児は成長し、強くなった」と書かれていることから、イエスが神殿にいる長老たちに質問していたという箇所まで[1]

 聖書を信じているように見える少なからざる人たちが、全能の神の神性の栄光を擁護するかのように、救い主の神性を否定していますので、彼らが、聖書そのものの権威に基づいて、人間の身体にも何かしら神的なものが入ってきたこと、しかも人間の身体にばかりでなく、人間の魂にもそれが入ってきたことを教えられるのは、私には正当なことであるように思われます[2]。しかしながら、もしも私たちが聖書の意味に注意するなら、その魂は、他の諸々の人間の魂が持つ以上のもを含んでいました。実際、人間のすべての魂は、それが徳に至る以前は、諸々の悪徳に汚れています。ところがイエスの魂の方は、罪の汚れに決して染まりませんでした。というのは、イエスが十二歳に達する前に、聖霊はルカの福音の中で、彼について次のように書いているからです。「他方、幼児は成長し、強くなり、再び知恵に満たされた[3]」と。十二歳に達する前に、知恵に満たされるということを、人間の本性は受け入れません。知恵の一部を持つことと、知恵に満たされることは、それぞれ別のことなのです。



[1] Lc.2,40-46.

[2] ここで問題になっているのは、イエスの身体と魂である。

[3] Lc.2,4.

 

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