私たちの主イエス・キリストも、「しみ[1]のない栄えある教会をご自分に示しました[2]」が、それは教会の人[3]がしみを決して持たないからではなく、もはや決してしみを持たないからです。その人が「しわを持たない[4]」のは、「古き人」のしわがその人にかつてなかったからではなく、その人がしわを持つのをやめたからです。引き続く言葉、すなわち「(教会が)聖なるもの、しみのないものとなるためです[5]」も、そのように理解されねばなりません。それは元からしみがなかったのではありません――実際、人間について、その魂がしみのないものであることを想像することはできません――。むしろ、もはやしみを持つことをやめた魂が、清く純粋であると見なされるのです。以上のことを私たちが述べましたのは、人間は、罪を犯すことをやめたがゆえに、罪もしみもないものと呼ばれ得ることを、私たちが教えるためです。そういうわけで、ザカリアとエリザベツについても、「二人は、神のみ前に正しく、主のすべての掟と定めにおいて落ち度なく歩んでいた[6]」と極めて明瞭に書かれているのです。



[1] ここに「しみ」と訳した原語はmaculaで、汚れや落ち度の意味もある。両義に解してもらいたい。

[2] Ep.5,27.

[3] ecclesiasticus vir;オリゲネスの作品にはしばしば出てくる言い回し。教役者を指す場合もあるが、概して、異端者に対置して用いられる。Cf.Hom.Lc.XVI,6(SC 87,244); Hom.Lv.I,1(GCS 6m281); Hom.Is.VII,3(GCS 8,283);Com.Rm.III,1(PG 14,927C).

[4] Ep.5,27.

[5] Ep.5,27.

[6] Lc.1,6.

 

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