第二十講話

「なぜあなた方は私をお探しになったのですか」と書かれていることから、「マリアはすべての言葉をご自分の心の中に留めていた」と言っている箇所まで[1]

 マリアとヨセフは、「親戚の人たちの間に」イエスを探しましたが、見出すことはできませんでした。「道連れの中に」探しましたが、見出すことができませんでした。彼らは、「神殿の中に」探しましたが、単に「神殿の中に」ではなく、むしろ教師たちの許で、しかも「教師たちのただ中に」彼を見つけました[2]。教師たちのいるところならどこででも、イエスは「教師たちのただ中に」見出されます。ただしその場合の教師は、「神殿の中に」座っていて、そこから外に決して出たことのない教師でなければなりません。

 イエスは、ご自分の教師たちにとって有益でした。彼の質問を受けているのが目撃された人々のただ中で、彼は、彼らに語りながら教えていました。ある意味で彼は、彼らが知らなかったものを探すように彼らに促し、彼らが知っていようが知らないでいようが、それまで彼らが理解することのできなかったものを探求するように彼らに促していたのです。



[1] Lc.2,49-51.

[2] Lc.2,44-46.

 

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