第二十五講話

「彼こそはキリストではないか[1]」と、民がヨハネについて抱いている疑念について。

愛も、限度を超えれば、危険になります。実際、誰かを愛する人は、愛の本性と諸々の動機を考慮に入れるべきであり、愛されるべき人に相応しい程度を超えて愛さないようにすべきです[2]。もしも愛の尺度と限度を超えるなら、愛する人も愛される人も罪の中にいるでしょう[3]。このことがより明白になるように、私は、ヨハネを例として取り上げてみようと思います。

 民は彼に驚嘆し、彼を愛しました。確かに彼は、驚嘆に値しました。その結果、彼は他の人々に優って大きな驚嘆が帰せられました。なぜなら彼は、他のすべての人たちとは異なった生活をしたからです。私たちは皆、質素な食べ物では満足しません。かえって多様な食事を喜びます。一種類のぶどう酒を飲むだけでは充分ではありません。私たちは、多様な味覚のぶどう酒を購入するものです。



[1] Lc.3,15.

[2] Cf.Com.Ct.III, (GCS 8, 186-191).; Augustinus, Doct.Christi., I, 27-28 (PL 34, 29-30); H.Pétré, « Ordinata caritas, un enseignement d’Origène sur la Charité », RSR 41 (1954), p.40-57.

[3] Cf.Com.Ct.II,1 (SC 37, 80): Res quae bonae sunt per naturam, dum male eis abutimur nos ad peccata deducunt.

 

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