第二十九講話

「ところがイエスは、聖霊に満たされて戻った」と書かれていることについて。そして、彼の最初の誘惑について[1]

 あなたが福音の中で、「ところがイエスは、聖霊に満たされて戻った」という言葉や、使徒言行録の中で、彼らは「聖霊に満たされていた[2]」という言葉を読むとき、どうかあなたは、使徒たちが救い主と同等であるとお考えにならないで下さい。かえってイエスであれ、使徒たちであれ、他の誰であれ、聖霊に満たされるとはいえ、それぞれの器の大きさに従ってであることをお知りおきください[3]。たとえば、もしもあなたが、これらの器はブドウ酒や油で満たされていると言おうとするとき、それらが等しい量で満たされているとは直ちに言わないでしょう。なぜなら、セクスターリウス収める器もあれば、ウールナ収める器もあり、アンフォラ収める器もあるからです[4]。それと同様に、イエスもパウロも、聖霊に満たされましたが、パウロの器はイエスの器よりもはるかに小さいものでした。そして両者は、それぞれの大きさに従って満たされたのです。



[1] Lc.4,1-4.

[2] Ac.2,4.

[3] Cf.Hom.Is.,III,2 (GCS 8, 255).

[4] 「セクスターリウス」(sextarium)は、量の単位で、大体500ml、ウールナ(urna)は、壷のことで、約13ℓ、アンフォラ(amphora)は、二つの取っ手の付いたギリシア式の甕で、2ウールナい相当する。

 

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