第三十講話

救い主の第二の誘惑について[1]

 神の子にも、反キリストにも、支配への熱望があります。しかし反キリストは、自分に服従させたものたちを殺すために、支配しようと望みます。キリストは、救うために支配します。私たちの一人ひとりは、もしも(信仰に)忠実なら、み言葉、智恵、正義、真理[2]としてのキリストによって支配されます。しかしながら、もしも私たちが、神の友であるよりも、欲望の友であるなら[3]、私たちは罪によって支配されます。その罪について、使徒は次のように語っています。「ですから、あなた方の死すべき体の中で罪が支配しないようにするために[4]」。したがって、二人の王が、支配をめぐって競い合っています。罪の王である悪魔は、罪人たちを支配しようとし、正義の王であるキリストは、正しい人たちを支配しようとします[5]

さて、キリストが来られた理由は、キリストが悪魔の支配する国を取り上げるためであること、そして、悪魔の支配下にあった人たちがキリストの支配下に入り始るためであることを、悪魔は知っていたので、悪魔は「彼に、この世のすべての国々を見せ[6]」、この代の人々の内ある人たちが姦淫に支配されている様や、他の人たちが貪欲に支配されている様、またある人たちは世俗の名声に魅惑されている様や、他の人たちが容姿の美しさに囚われている様を見せました。



[1] Lc.4,5-8.

[2] これらは、オリゲネスが好むキリストの属性(エピノイア)で、最初期から一貫して採用されている。詳しくは、彼の『原理論』ないしは『ヨハネによる福音注解』を参照せよ。

[3] Sin autem amatores voluptatis magis sumus quam amatores Dei,…

[4] Rm.6,12.

[5] このような考えが、キリスト教の修徳思想の伝統となる悪魔との霊的戦いへと発展する。オリゲネス自身も『士師記第九講話』の中で、まさに霊的戦いという言葉を使っている:certamen et pugna spiritalis (GCS 7,520)。また、西方キリスト教の修徳思想に大きな影響を与えたカッシアヌスの『講義』も、同じ問題を扱ったオリゲネスの『原理論』III,4(GCS 5, 263)から明らかに着想を得ている。Cf.Cassianus, Conlationes, IV (SC 42, 167).

[6] Lc.4,5.

 

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