第三十五講話

「あなたが、あなたの敵対者と共に行くとき」と書かれていることから、「あなたは、最後の小銭まで返さなければならないだろう」と言っている個所まで[1]

 正しいことを判断する力が、私たちの本性に植え込まれていなかったとすれば、救い主は、「しかし、なぜあなた方は、何が正しいかをあなた方自身で判断しないのですか[2]」とは決して言わなかったでしょう[3]。しかし私たちが、この文の検討にあまり長く時間を費やさないようにするために――なぜならこの章には、もっと難しい諸々の事柄が結び付いているので――、これが何を意味するかを確認するだけで十分だとしましょう。その代わり私たちは、私たちの諸々の魂の覆いを神に向かって開き、次のたとえ話を解釈してくださるよう、神のみ言葉の到来を祈り求めましょう[4]。そのたとえ話に関して、次ぎのように書かれています。「あなたが、あなたの敵対者と共に町の役人の許に行くとき、あなたは、彼によって放免されるように努めなさい。それは、裁判官に引き渡されないようにするためである。裁判官は、あなたを看守に引き渡すだろう。そして、あなたは牢屋に入れられるだろう。私は、確かにあなたに言っておく。最後の小銭まで返さなければ、あなたが、そこから出ることはない[5]」と。4人の登場人物が置かれているのが私にはわかります。それは、敵対者と役人、裁判官と看守です[6]。そして福音記者のマタイが、次ぎのように言う個所で何かしら似たことを語っているように見えるので――すなわち「あなたは、敵対者と共に道中にある間に、彼と仲直りしなさい[7]」と言っているので、私は、この言葉が(ルカの言葉と)同じ意味なのか、それとも(ルカの言葉に)近似している(だけな)のか探求したいと思います。なぜならマタイでは、一人の登場人物は見過ごされ、他の登場人物は変えられているからです。



[1] Lc.12,58-59.

[2] Lc.12,57.

[3] オリゲネスのこのような発言は、人間を善悪の判断もできないほど腐敗しきった存在者とするグノーシス主義へのアンチテーゼかもしれない。

[4] オリゲネスは、難しい節の解釈に際して、しばしば、神の恩寵を求めて聴衆と共に祈る。Cf.Hom.Ez.IV,3 (GCS 8, p.364); XI, 2 (GCS 8, p.425); Hom.Gn.VI,1 (SC 7, p.146); XII,1 (SC 7, p.204).

[5] Lc.12,58-59.

[6] 敵対者(adversarius)、役人(princeps)、裁判官(iudex)、看守(exactor)

[7] Mt.5,25.

 

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