(実際、マタイによる福音では)「役人」は省略され、「看守」の代わりに「下役」が挿入されています[1]。しかし、「敵対者」と「裁判官」は、両者によって同様に使われています。

 こうして私たちは、「敵対者」とともに、「役人」の許に行きます。そして、私たちがそこへの「道中」にある間に、彼から放免されるように、力強く努力しなければなりません。しかし、誰から放免されるためでしょうか。実のところ、言葉が曖昧で、「役人」にも「敵対者」にも関係づけられます。「敵対者」であれ「役人」であれ、「彼が、あなたを裁判官に引き渡されないようにするためである。裁判官は、あなたを看守に引き渡すだろう[2]」。そして、「最後の小銭を返すまでは、あなたが、そこから出ることはない[3]」とあります。これに対してマルコは、「あなたが、最後の一円を返すまでは[4]」と言っています。両者とも各々、「最後の」という言葉を保持しています。しかし一方は「一円」を、他方は「小銭」を使った点で、異なっているように見えました。



[1] 下役(minister)

[2] Lc.12,58.

[3] Lc.12,59. 「最後の小銭」ヒエロニムス訳でnovissimum minutum。ギリシア語ではto. e;scaton lepto.n

[4] Mt.5,26.「最後の一円」:ヒエロニムス訳ではnovissimus quadrans。ギリシア語ではo` e;scatoj kodra,nthj

 

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