主イエスのように義のために迫害を受けた人は誰もいません。主イエスは、私たちの諸々の罪のために十字架に付けられました。このように主は、すべての至福を、ご自身において立証しました。以上のたとえ話に加えて、さらにイエスは、「泣く人たちは幸いである[1]」と言われたことを立証します。彼は、この至福の基礎を据えるために、みずから泣きました。しかしイエスは、エルサレムについて泣き、次のように言っています。「もしも今日、お前もまた、お前にとって何が平和をもたらすかを知っていたら・・・。しかし今、それはお前の目から隠されている」云々、「それは、お前が、お前の訪れのときを知らなかったからである[2]」と述べる箇所まで。



[1] Mt.5,4.

[2] Lc.19,42-44. なお、フランシスコ会訳『新約聖書』の注によれば、「お前の訪れのとき」(tempus visitationis tuae)とは、「神の罰」を意味することもあるし、「神の恵み」を指すこともあるとされる。

 

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