もしもあなたが、ユダヤ人たちの暮らしは、理性と言葉を伴っておらず、彼らは自分たちの諸々の行いに説明を与えることができないとお考えになるなら、ザカリアにおいて像[1]して先行した事柄が、今日の彼らにおいても成し遂げられると、あなたはご理解ください。

 彼らの割礼は身振りに似ています。なぜなら割礼に説明が与えられなければ、その割礼は身振りであり、無言の業です。過越祭やその他の荘厳な祭りも、真理というよりは身振りです。今日に至るまでイスラエルの民は、耳が聞こえず口が利けません。実際、み言葉を投げ捨てた人の耳が聞こえ、口が利くことはあり得ないのです。



[1] imago;後出のveritasu(真理)に対比される。真理の影といった意味で用いられている。ユダヤ教の祭儀は、真理であるキリストの像に過ぎない。

 

次へ